子育てに必要なのは他人

母親による児童虐待のニュースに対して、これだから若い母親はとか親になる資格もないなどのコメントを見聞きするたび、悲しくなる。

虐待はいけない。
でも私には他人事には思えない。

虐待を受けたことはない。ニュースに出てくるような折檻をしたこともない。
でも子どもに手をあげたことはあるし、怒鳴ったこともある。部屋に閉じ込めてしまいたいと思ったこともあるし、家において逃げてしまいたいと思ったこともある。

そういう気持ちになる度に、そういう行動に出る度に、自己嫌悪に陥ってなんてダメな母親なんだと自分を責めるんだけど、外れてまではいなくとも一度ゆるんでしまった箍をはめ直すのはとても難しい。自己嫌悪に陥っているときに子どもがわがままを言ったり泣き叫んだりしようものなら、どんどん箍は緩んでいって、行動も気持ちもエスカレートしてしまう。

私がこれまで、幸い毎回箍をはめ直してこられたのは、ただただまわりの人のおかげだ。なるべく時間通りに帰って来てくれる旦那はもちろん、Skypeしてくれる日本の家族、気さくに声をかけてくれる近所の人。そういう人との交流が、自分を子どもと二人だけの世界から引き戻してくれる。

コブが生まれてから手伝いに来てくれていた母が帰国し、日中二人の生活にやっと慣れた頃、二人きりでいるよりも他人がいたほうがコブを愛おしく思うことが多いことに気がついた。でもなんだか自分の愛情が足りないことの証のような気がして認めずにきた。でも最近になってやっと、恥じることなく認められるようになった。コブももうじき15ヶ月で、きちんとした発語はないものの、こちらのいうことをかなり理解するようになったし、簡単な意思疎通もできるようになった。それでもなお、負のスパイラルに陥ると、自分の感情の渦にそのまま巻き込んでしまいそうになる。他人が監視しているという意味ではなくて、他人の存在を感じられることで、少なくとも私は、コブもまた自分とは違う一人の人間なのだと、距離を持って接することができるようになるのだ。

大阪の事件を知って、本当に胸が痛んだ。
その後本人の過去のブログやら何やらの情報が溢れだし、「愛情あふれる母が鬼母に」というような記事ばかりが目につく。彼女の変化ばかりを強調する紙面に違和感を覚える。「愛憎渦巻く」というように、「可愛さ余って憎さ百倍」ということわざもあるように、愛情と憎しみは決して相反する感情ではない。児童虐待を鬼親の仕業と片付けているうちは、有効な解決策なんて出てこない。

私が自分自身の経験から感じるのは、子どもはなるべくたくさんの人間の中で育つべきだということ。核家族の狭いアパートは一種の密室だ。密室の中では負のスパイラルに陥りやすい。そのためには公園でも児童館でも、子連れで気軽に行ける場所が増えること、そして交通手段だけでなく町の人たちが子連れでの外出を暖かく見守れないと難しい。そして誰でも気軽に利用できる一時保育や保育園。

フランスには専業主婦(夫)の子どもを預かるためのHalte Garderieという施設がある。保育園で一時的に預かってくれるのではなく、そのための施設があるのだ。それを知ったとき、すごいなと思った。そして今、それを利用できなかったら自分はもっと辛かっただろうと容易に想像できる。専業主婦が子育てを休んでどうするなんていう批判をネットの掲示板でよく見かけるけれど、私から言わせてもらえば専業主婦だからこそ、子育てを時々は休まなくてはいけない。

偉そうなことを書いている自分だけれど、先日Garderieでフランス人の母親が預けられるのを嫌がる息子に「お母さんはこれからエステに行くの。一緒に行ってもつまらないと思うよ。」と言ってるのを聞いて、エステかいと突っ込んでいる自分に気づいた。こういう偏見で自分たちが苦しい思いをしているというのに、自分の心にこそ、そういう偏見は残っているようだ。

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