時間を過ごすための家

 

新型ウィルス騒ぎが起こる前、知り合いのフランス人共働き家族の1日は、次のような感じだった。

仕事が早く始まる父親、仕事は少しあとだけれど子供を学校に送っていくため早く家を出る母親。子供達は急いで朝ごはんを口に流し込む。朝食の食器を食洗機にセットし、毎朝7時頃にバタバタと順番に出かける。

昼間、家には誰もいない。時々、通の家政婦が掃除に来るくらいだ。子供を学童に迎えに行った父親か母親が帰宅するのが夜7時頃。そこから夕飯の支度をして、子供の宿題をみて、シャワーを浴びせて寝かせる。子供が寝るまでは時間との戦い。子供が寝てからやっと、大人の時間ができるが、翌朝もまた早いので、それは3、4時間の話。夫婦で映画を見たり、喋ったり、それぞれネットサーフィンでもして過ごせば、あっという間に1日が終わる。

平日5日間がそんな感じで過ぎていき、週末も買い物・洗濯・掃除・イベントで過ぎていく。彼らが家族皆で家で過ごす時間というのは、実はそのほとんどが寝ている時間なのだ。

家は寝るための場所と割り切っていれば、それもいいだろう。でも実際には、多くの人が家にこだわり、間取りにこだわり、住居に高いお金を払っている。我が家も例に漏れず、ローン返済中。そうであれば、今のこの外出禁止期間は、これまで外で仕事をしていた人々が、高い対価を支払って手にしている住居を満喫する機会と考えることもできる。寝るだけの場所ではなく、時間を過ごすための場所としての住居を満喫する期間なのだ。

この騒ぎが収束しても、人々が家に求めるクライテリアは以前とは大きく変わるだろう。物も人も集中している都会に住むメリットが大きかった以前と比べて、人が集中しているからこそのリスクや場所がないというデメリットを気にする人が増えるだろう。インターネットと郵便事情さえ整備されている地域なら、割と多くのことを問題なくこなして暮らすことができるということに気付いた人も多いはずだ。車を持つことも、以前はネガティブな印象が強くなっていたが、公共交通機関のリスクが露呈した今、一人で好きな時に好きなところに行ける交通手段の価値というのも見直されると思う。

これまでの世界は、場所によって多少の差はあっても、基本的には都会への一極集中だった。今後も都会の便利さや物理的な機会の多さと言った部分は変わらないだろう。だが、新型ウィルス騒ぎで新しいクライテリアが加わることで、今までよりは地方に向かう流れが強くなるのではないか。新型ウィルスがある程度落ち着いた時こそ、過疎化に悩む地域に就労世代を呼び込むには絶好のタイミングかと思う。

ハーモニクス講習会

12月1日と2日の週末、女性4声+チェロのボーカルグループで「ハーモニクス講習会」に参加してきた。フランス語だと”Stage d’Harmoniques”という。

事前に歌仲間から色々と噂は聞いていて、歌声がどんどん変わっていく様は魔法みたいだとか、あまりの衝撃に泣き出してしまう人がいるとか、もはや宗教か?ってほどの感想もあったので、半分疑いながら参加してきた。

 

結論から言うと、確かに世界が変わってしまう経験だった。講習会の内容は、簡単に言えば「声」のハーモニクスを聞けるようにする、ということ。

人の声でも楽器でも、例えば「ミ」の音を出しても、実際には「ミ」だけでなく、そのほか様々な倍音や雑音がなっている。でも現代の音楽教育では、その多様な響きの中の「ミ」という音だけを聞いて「ミ」と判断する訓練をするので、そういう部分を聞く力というのは、だいたい6,7才あたりから衰えていってしまうらしい。

この講習会は、そうやって子供時代には誰もが聞こえていたのに、大きくなるにつれて脳のオートメーションで弾かれてしまうようになった音を聞いてみようというものだ。

何いってるのかわからないと言う方は、ぜひ下のビデオを見てみてください。

(ずっとニヤニヤしていて、すごいすごい言っていて、宗教のように感じるかもしれませんが、私自身、皆で歌っていてハーモニクスが聞こえると微笑まずにいられないので、この方の気持ちはすごくよくわかります。)

Dainouri Choqueという、フランスではその道で結構有名らしい方が講師だったのだけど、まさしくこのビデオの人のように、ハーモニクスでメロディを奏でていた。最初からハーモニクスのメロディが聞こえる人もいれば、最初は全然聞こえないのに、半日後、1日後、最後の最後になって聞こえるようになる人もいる。

 

まず初日、1日そうやってハーモニクスに耳を凝らして帰宅すると、子供達の騒ぎ声にエコーが聞こえるではないか!これまでもずっと毎日聞いていた、家での子供達の騒ぎ声が全く違って聞こえるのだ。他の人たちは「鳥の声」とか「風の音」とかが全く違って聞こえると言っていて、私はあまり情緒ない子供の叫び声だけど、それでもやっぱり聞こえ方が違う。

そして二日目。前日に引き続き、皆でバラバラな音を出してそれらを融合させて、その上部ハーモニクスに耳を傾けるという練習をしていたのだが、昨日までは自分の耳元で聞こえていた自分の声が、全然聞こえなくなっていた。そして融合した皆の声が、自分の体に入ってきたのだ。どれもこれもあまりに感覚的なものなので、言葉で表現するのは難しいけれど、あえて言えば、自分は自分の声を出しているのではなく、「融合した声」を響かせるパーツになったという感じ。そしてその時には、音の響きが耳元ではなく胸で感じられるようになった。

Dainouriさんが繰り返し言うのは、耳が開かれるようになると「自分の声が外で鳴るようになる」ということ。自分の声が自分の中から聞こえるのはなくて、まるで録音して流しているかのように、外で鳴っているように聞こえると。自分の声が聞こえなくなるのは、そこにたどり着くまでの過程だそうだ。さらに耳が開かれると、その融合した声の中にある自分の声が聞こえるようになるらしい。

 

ハーモニクスが聞こえるから何なんだ、という話もあるだろう。別に「ミ」だけ聞こえてればいいじゃないかと。

確かにそう言う考え方もあるだろう。実際、あまりにもハーモニクスが聞こえると、耳障りなこともあるし、どの音程を取るべきが判断に迷う時もある。自分の声が耳元で聞こえないと、自分の音程がよくわからなくなったりもする。

それでも、先ほどのビデオの人が力説しているように、ハーモニクスを聞けるようにするのは、すごく有意義なことだと私は思う。

私にとっての一番の理由は、自分と他人との境目がなくなるという、現在ではとても貴重な体験ができるからだ。複数の人の声が融合すると、自分の声というよりも、融合した声が自分の体に響くようになる。つまり、人の声も体の中から響く。これは、私にとっては素晴らしい体験だったけれど、ガードが固い人とかにとっては、非常に暴力的な経験になることもあるらしい。それで気が狂ったように泣き出してしまう人もいるらしい。そしてそれはすごくよくわかる。

それでも今日、あまりにも「私」という概念に凝り固まっている私たちには、こういう経験は非常に意義があると思う。

ここ数年、「体の使い方」に興味を持っていて、古武術の甲野さんの本を読んだり、そのつながりでヒモトレをやってみたりしている。その流れで読んだ内田樹著「修行論」に出てくる「我執を脱する」というのが、今回の経験を一番正確に表している言葉だと思う。合気道での組手は、相手と自分がぶつかるのではなく、二つが二頭龍のように一つになって動きが生まれるのだというところ。

3年目に入ったピラティスでも、先生がいつも言うのは「考えずに感じなさい」「脳が思い込んでいるオートメーションから自由になりなさい」ということだ。

つまり、私たちが「〇〇だ」と定義することで、弾かれてしまう様々な部分を、ありのまま感じると言うことなのだと思う。

私たちが思っているよりも、自分という存在は曖昧で、周りと混ざっていて、周りの影響を受けていて、そして自分が思っている以上に、自分は周辺部に存在しているのだろう。

 

この講習を経て、私にとって一番有益だったのは、自分のピアノに対するアプローチが変わったことだ。Dainouriさんが言っていたのは、声であれ楽器であれ、「音の発生→自分に戻ってくるエコー→発生源への作用→エコー・・・」というサイクルが確立されれば、安定するということだった。

私はピアノのタッチというものに気を配った記憶がなくて、正しく弾く(音程を)ということしか考えてこなかった。今の先生に習うようになって、音は正しくても、タッチがとか音色がとかという風に自分で気づけるようにはなったのだが、一体どうすればそこを改善できるのか、皆目見当がつかなかった。タッチを変えようと思って色々手の加減やら動きやらを変えてみればみるほど、袋小路に入り込んでしまう。

そして、今回の講習を経て気が付いたのは、私があまりにも音の発生源である手や指に集中しすぎていたと言うことだ。集中しすぎるあまり、私はピアノから出た音の響きに耳を傾けられていなかったのだ。集中することによって手が緊張してしまっていたこともあるだろう。

日曜日の講習のあと、試しにピアノを弾いてみた。それはまるで違う楽器だった。こんなにも表情があるのか。こんなに強く弾かなくても、こんなにも響くのか。これもまた、言葉では言い表せないものだけれど。

同じ楽器でも、弾く人によってまるで楽器自体が歌っているようだったり、耳を塞ぎたくなるような音が出たりする。それを私たちはテクニックによるものだと思いがちだけれど、実はそれは演奏者の耳が、どれだけ音に開かれているかによるところが大きいのかもしれない。

Give Peace a Chanceって歌うんだ

今年度の初め、私が参加しているコーラスで使用している部屋について他の音楽クラスとバッティングがあり、多少もめた。といってもどちらもいい年した大人だし、市営の施設なので市役所の人も間に入って無事解決。結果的に私たちがその部屋を使えることになった。

解決後初めての練習日、部屋でウォームアップをしていると、移動させられたクラスの先生がやってきてこう言った。
「ここにある楽器はとても高いものなんだ。触らないでくれ。」
私たちはピアノ以外の楽器は使わないので「分かってます。気をつけますよ。」と答えた。
先生は続けた。「分かっていない、今あなたが寄りかかっている楽器は50万するし、あの楽器の上にコートが置いてあるなんてもってのほかだ。」
こっちにも言い分はある。その楽器たちのせいでコート掛けが塞がれて使えないのだ。
正直に言えばムッとしたし、多分多くの人がそうだった。

私はそのやりとりを見ながら、そこに敵意を込めなければ、こっちも譲ってくれてありがとう、移動させてしまってごめんなさいって言えただろうにって思っていた。どこからか負が入り込むとそれは回り回ってなかなか消せないと思うから。

でもその時にコーラス仲間の一人が言った。「そうね、確かにそういう楽器の使い方はよくないわね、ごめんなさい。」
ムッとして動こうとしない人もいたし、無視していた人もいた。
でも彼女は別に苛立つでもなく穏やかなまま仲間たちにコートをどけましょうと呼びかけた。
先生は黙って出て行った。
いきなりの出来事になんだあれと悪口を言う人もいたけど、私はただ感動した。

私は流されていないつもりだった。でも多分私が口を開けば、負の言葉しか出てこなかったと思う。それは直接相手を攻撃するというより、自衛的になるという意味での負だ。つまり、相手からいきなり攻撃されたという口実を得て、私たちは悪くないのにという自己正当化が私の中では着実に起きていたのだということが、そうでない彼女の言動を目の当たりにして身に染みたのだ。

Anatomy of Peaceにはこのまんまのことが書いてあったではないか。

相手の発した「負」を、批判したり受け止めたりするのではなく流すのだと、気に留めないということなのだと分かった。分かったからといってできるようにはならないけど、でも残念ながら発生してしまった負が、簡単に暴発してしまう負が、穏やかに静まっていくのを目の当たりにして、私もこういう大人を目指したいと強く思った。

戦争とか世界規模のことだけでなく、夫婦間とか親子間とか友達同士で起こるような諍いも、多分そのほとんどは負の増殖によるものだと思う。もともとものすごい諍いとか不平等が存在するというよりも、どこかで生まれた小さな負があっというまに暴発してしまうだけ。直接相手を攻撃する人だけでなく、それを批判的に見ている私のような偽善者もまた負を増長している。

アレルギー

小学生くらいの時だっただろうか。
友達の家の木に登ってみんなでさくらんぼを食べていた。おいしくってたくさん食べたら突然気持ち悪くなって、それ以降さくらんぼが食べられなくなった。あのほのかな甘味が口の中で温められて、それが吐き気をもよおすようになってしまった。きっかけは覚えていないけどりんごも同じ。ある時から口に残った甘味が気持ち悪くなって、しかも食べると唇が腫れるようになった。
家族は考えすぎだといいりんごは体にいいから食べなさいといわれ続けたし、自分でも甘味が苦手になっただけなのかなと思ったけど、他にもいちごとか桃とか甘味のあるフルーツは苦手になってしまった。あんなに好きだったのに。

そして今回の一時帰国中、おいしそうなビワを一つ食べたら喉と鼻の奥が腫れて声がガラガラ、咳が止まらなくなってしまった。呼吸困難になるかと思った。義理の兄がキウイアレルギーで食べたら死ぬっていつもいっていて大袈裟なって思っていたけど、今回の症状を経験するとありえるかもと思い直した。本当に息が苦しくなるんです。こういう症状は妊娠中にキウイとナッツで経験して以来。あまりの症状の強さにビックリして調べたら、なんとあるんですね、そういうアレルギーが。

口腔アレルギー症候群というらしい。バラ科の果物はなりやすいそうで、例えばリンゴ、モモ、サクランボ、洋ナシ、ナシ、スモモ、アンズ、イチゴ、ウメ、ビワ!!!なんと今までの人生のあちこちで違和感を覚えた食べ物たちは、実はみんなバラ科の植物だったのですね。一本の線でつながるとはまさにこのこと。

花粉症もあるけど何花粉に反応するのかは調べてないので分からない。でもフランスでもあるので杉だけじゃないのかも。
結局治ることはなさそうだけど、今のところウリ科の果物にはアレルギー反応が出ないだけましだと思うべきなんだろうか。きゅうりやメロンまで食べられなくなったら残念すぎる。
ちなみに色んなサイトにある通り、生のりんごはダメですがコンポートやジュース、ジャムは問題ないです。いちごもケーキとかに乗っているのは大丈夫。量の問題?あるいは新鮮さの問題?とにかくあまり大量に食べるとさらに反応しやすくなるみたいなので、少なく味わって生きていくしかなさそうです。

選挙

オバマが大統領になった。
オバマがアメリカで初めての非白人大統領になったというのは事実。だけど、肌が黒かったから当選したわけじゃない。オバマ本人も選挙戦の中で人種については絶対に触れなかった。オバマだからできたこと。
だけど同時に、新しく選ばれた大統領が白人ではなくケニア人とアメリカ人のハーフで、黒い肌を持つ人間だったことは、この国にとってあまりにも大きすぎる出来事だ。アメリカにおける黒人の歴史を、映画やドキュメンタリーで見てはいても、実際にそれがどういう影響を今持っているのか、実感できることは少ない。特にベイエリアは黒人の住み分けが湾を隔てていて、正直こちらに来てからあまり黒人を多く見かけない。そんな中、昨日の”The View”という番組の中での黒人の司会者の発言が印象的だった。
“The View”はウーピー・ゴールドバーグをはじめ、バーバラ・ウォルターズ等、人種、思想、年代的にも多様な面々が時事問題についておしゃべりをする番組だ。支持政党も分かれており、今回の選挙戦中は番組も随分ヒートアップした。司会者の一人、黒人女性のシェリは、どちらの主張にもそれぞれ共感できるところがあると言って最後の最後までどちらに投票するかを決めかねずにいた。彼女は結局オバマに投票したそうだが、そのことについて話そうとして、彼女は泣き出しながらこう言った。「私がハリウッドで女優になりたいと言ったとき、両親は郵便局に勤めなさい、この国では黒人には出来ることと出来ないことがある、ハリウッドでは黒人は働けないと言った。昨日の夜、自分の息子を見ながら、この子にはそういう人種ゆえの限界があると言わなくていいんだと分かった。限界なんてないって言うことが出来ると。」
正直これを見るまで、「黒人大統領」という言葉をあまり好意的に見ることが出来なかったし、何よりもパウエルが発言した通り「黒人だからオバマを支持するのではなく、オバマだから支持する」という風にならないといけないと私も思っていた。今回オバマに投票した人の中に、黒人なら誰でも良いと思って投票した人が多くいたとは思わない。だけど両者を比較したときに、彼が黒い肌を持つ人間であるということが一つの要素として加わっていた人は結構いるのではないかと思うのだ。そういう思いもあって、アメリカはもちろん、日本の報道で「黒人大統領」が連発されるのを見て、なんだか複雑な気分になった。でも先ほどの発言を聞いて、そんなきれいごとではないのだということが、納得できた。今回の大統領選の結果には二つの側面があるのだ。一つはヒラリーに対しても、マケインに対しても、かなりのハンデを負って選挙戦をスタートしたバラクオバマという人物が当選したこと。そしてもう一つは、黒い肌を持つ人間がアメリカの大統領になったということ。そして人によっては前者より後者の方がより大きな意味を持つこともあるというのは、充分に理解できることなのだと思ったのだ。
今回の選挙を受けて、アメリカンドリームの国、誰にでもチャンスがある国アメリカという思いを、国民が強く意識したという。これによって愛国心がさらに強くなる人々もいるだろう。それが良いことなのかどうか、私にはよく分からないけれど、歴史の流れの中での、大きな一歩であったことは確かなんだろうと思う。今までの8年間に嫌気がさしていたからこそ、オバマに対する支持があそこまで上がったという指摘もあった。決して楽観視できる情勢ではないけれど、アメリカがどんな方向に進んでいくのか、見るのが楽しみではある。

残念な選挙

大統領選と同時に、様々な法案が住民投票にかけられた。こちらでは(特にカリフォルニアは)何から何まで住民投票にかける。それが民主主義だという主張も分かるけど、州の法案だけで10個以上あって、さらにそれぞれの街ごとのものもあって、果たして人々がどれだけリサーチして自分の意見を投票してるのか、それが本当の民主主義なのかよく分からない。一番よく分からないのは”Vote NO on Prop××”とか”Vote YES on Prop××”の類いのCM。どちらもたかだ30秒でその法案の善し悪しを伝えることなんか出来るはずないのに、人々の心につけ込もうとする意図丸見えのCMばかりなのだ。それを見るたびに、民主主義の意義を考えてしまう。
で、今回カリフォルニアで最も話題になったのがProp8。しばらく前にカリフォルニアの裁判所が合憲と認めた同性婚を禁止するための法案だ。そして残念ながらこの法案は通ってしまった。合憲との裁判所の判決があるので、同性婚賛成派は裁判を起こすそうだけれど、投票した人の半分以上の人が同性婚はダメと言ったんだと思うと悲しい。
私は同性愛っていうのは自分で選ぶものではなくて、その人の性質というか、自分の意志とは関係ないところで決まってしまうものなんだと思う。以前自分もゲイになり得ると思うかと聞かれて、考えたときの答えは「好きになった人がたまたま同性なら、なる」というものだった。私自身はそういう経験はないけれど、それはたまたま好きになった人が外国人で国際結婚をした自分と似ている気がしたのだ。国際結婚はもちろん結婚できるし、人権侵害というほどのハードルはないけれど、戸籍とか国籍とか偏見とかで、やはり日本人同士だったらなかったであろう問題にぶつかることもある。私は外国人と結婚したいと思っていたわけではなくて、好きになった人がたまたま外国人だったのだ。だからそれと同じ意味で、好きになった人がたまたま同性だったってことは充分にあり得ると思う。でも私のその返答はかなり風変わりなものと受け取られた。
私が今回の投票結果を見て残念に思うのは、おそらくは未知のものに対する恐怖心から、自分に迷惑がかかるわけではないのにNOを選んだ人が多かっただろうと思うからだ。ゲイが結婚できて迷惑する人なんているんだろうか。反対派の主張は「伝統的な家族を守る」とか「宗教の自由を」とかだったけど、ゲイの家族が出来たからってどうして異性カップルの家族が脅かされるのか分からないし、好きな宗教を信じるのは勝手で、なぜ彼らの意思の自由は認められないのかっていうのが不思議だ。何よりも不快だったのは、「Prop8が通らなければ、小学校で子供が同性婚について教えられることになる」というCM。しかもそれをさも脅威のように煽り立てているのだ。
自分自身もひょんなことから同性を好きになる日が来るかもしれない。自分には来なくても、自分の子供や親戚で、そういう経験をする人が出てくるかもしれない。その時に願うのは、人に迷惑をかけることなく幸せになって欲しいということだと思う。婚姻関係を結べなければ、遺産は家族に取られてしまうし、本人の意思表示ができない場合の医療的選択をすることも許されない。サンフランシスコのゲイを見ていて思うのは、彼らは声高にゲイであることとかゲイの権利とかを主張したいわけではなくて、ただ単に平穏な日常生活を、お互いを頼れる老後生活を求めているんだということ。婚姻という言葉にこだわる人が多いのであれば、Civil UnionをフランスのPACSのようなものにすることも一つの方法だと思う。どういう形が一番良いのか、私にはわからないけれど、ゲイを認めず、彼らのパートナーとしての権利も認めず、直視しようとしないのは、決していい結果にはつながらないはずだ。ゲイカップルの子供の問題も、私たちが目を背けている間にどんどん実際に誕生しているわけだし、目をそらすのではなく、お互いの妥協点を探していくことが、何より大切なんだと思う。無知は恐怖しか生まないのだ。

間に合わなかった

2/3、節分生まれの私たち。
記念日を忘れないようにと、2/4に入籍した私たち。

そして今日、2/5、私たちの妹犬が旅立ってしまった。
あなたの最期にいられなくてごめん。
最期までこの胸に抱きしめたかったよ。
あなたが苦しいとき、そばにいられなくてごめん。
あなたはいつも泣いている私を励ましてくれたのにね。

本当は春休み日本に帰れば良かったと思う。
本当はこの間帰ったとき、もっと家にいれば良かったと思う。
あなたはまだまだ元気だったから、
こんなに早く旅立ってしまうとは思わなかったんだ。

誰かが旅立つとき、後悔は後を絶たないけれど、
でも私が言いたいのはただ、ありがとう。大好きだよ。

私たちが忘れないように、でも重ならないように
今日まで頑張ってくれたのかな。

それでも間に合わなかった。
ごめんね。