大統領選と同時に、様々な法案が住民投票にかけられた。こちらでは(特にカリフォルニアは)何から何まで住民投票にかける。それが民主主義だという主張も分かるけど、州の法案だけで10個以上あって、さらにそれぞれの街ごとのものもあって、果たして人々がどれだけリサーチして自分の意見を投票してるのか、それが本当の民主主義なのかよく分からない。一番よく分からないのは”Vote NO on Prop××”とか”Vote YES on Prop××”の類いのCM。どちらもたかだ30秒でその法案の善し悪しを伝えることなんか出来るはずないのに、人々の心につけ込もうとする意図丸見えのCMばかりなのだ。それを見るたびに、民主主義の意義を考えてしまう。
で、今回カリフォルニアで最も話題になったのがProp8。しばらく前にカリフォルニアの裁判所が合憲と認めた同性婚を禁止するための法案だ。そして残念ながらこの法案は通ってしまった。合憲との裁判所の判決があるので、同性婚賛成派は裁判を起こすそうだけれど、投票した人の半分以上の人が同性婚はダメと言ったんだと思うと悲しい。
私は同性愛っていうのは自分で選ぶものではなくて、その人の性質というか、自分の意志とは関係ないところで決まってしまうものなんだと思う。以前自分もゲイになり得ると思うかと聞かれて、考えたときの答えは「好きになった人がたまたま同性なら、なる」というものだった。私自身はそういう経験はないけれど、それはたまたま好きになった人が外国人で国際結婚をした自分と似ている気がしたのだ。国際結婚はもちろん結婚できるし、人権侵害というほどのハードルはないけれど、戸籍とか国籍とか偏見とかで、やはり日本人同士だったらなかったであろう問題にぶつかることもある。私は外国人と結婚したいと思っていたわけではなくて、好きになった人がたまたま外国人だったのだ。だからそれと同じ意味で、好きになった人がたまたま同性だったってことは充分にあり得ると思う。でも私のその返答はかなり風変わりなものと受け取られた。
私が今回の投票結果を見て残念に思うのは、おそらくは未知のものに対する恐怖心から、自分に迷惑がかかるわけではないのにNOを選んだ人が多かっただろうと思うからだ。ゲイが結婚できて迷惑する人なんているんだろうか。反対派の主張は「伝統的な家族を守る」とか「宗教の自由を」とかだったけど、ゲイの家族が出来たからってどうして異性カップルの家族が脅かされるのか分からないし、好きな宗教を信じるのは勝手で、なぜ彼らの意思の自由は認められないのかっていうのが不思議だ。何よりも不快だったのは、「Prop8が通らなければ、小学校で子供が同性婚について教えられることになる」というCM。しかもそれをさも脅威のように煽り立てているのだ。
自分自身もひょんなことから同性を好きになる日が来るかもしれない。自分には来なくても、自分の子供や親戚で、そういう経験をする人が出てくるかもしれない。その時に願うのは、人に迷惑をかけることなく幸せになって欲しいということだと思う。婚姻関係を結べなければ、遺産は家族に取られてしまうし、本人の意思表示ができない場合の医療的選択をすることも許されない。サンフランシスコのゲイを見ていて思うのは、彼らは声高にゲイであることとかゲイの権利とかを主張したいわけではなくて、ただ単に平穏な日常生活を、お互いを頼れる老後生活を求めているんだということ。婚姻という言葉にこだわる人が多いのであれば、Civil UnionをフランスのPACSのようなものにすることも一つの方法だと思う。どういう形が一番良いのか、私にはわからないけれど、ゲイを認めず、彼らのパートナーとしての権利も認めず、直視しようとしないのは、決していい結果にはつながらないはずだ。ゲイカップルの子供の問題も、私たちが目を背けている間にどんどん実際に誕生しているわけだし、目をそらすのではなく、お互いの妥協点を探していくことが、何より大切なんだと思う。無知は恐怖しか生まないのだ。