ハーモニクス講習会

12月1日と2日の週末、女性4声+チェロのボーカルグループで「ハーモニクス講習会」に参加してきた。フランス語だと”Stage d’Harmoniques”という。

事前に歌仲間から色々と噂は聞いていて、歌声がどんどん変わっていく様は魔法みたいだとか、あまりの衝撃に泣き出してしまう人がいるとか、もはや宗教か?ってほどの感想もあったので、半分疑いながら参加してきた。

 

結論から言うと、確かに世界が変わってしまう経験だった。講習会の内容は、簡単に言えば「声」のハーモニクスを聞けるようにする、ということ。

人の声でも楽器でも、例えば「ミ」の音を出しても、実際には「ミ」だけでなく、そのほか様々な倍音や雑音がなっている。でも現代の音楽教育では、その多様な響きの中の「ミ」という音だけを聞いて「ミ」と判断する訓練をするので、そういう部分を聞く力というのは、だいたい6,7才あたりから衰えていってしまうらしい。

この講習会は、そうやって子供時代には誰もが聞こえていたのに、大きくなるにつれて脳のオートメーションで弾かれてしまうようになった音を聞いてみようというものだ。

何いってるのかわからないと言う方は、ぜひ下のビデオを見てみてください。

(ずっとニヤニヤしていて、すごいすごい言っていて、宗教のように感じるかもしれませんが、私自身、皆で歌っていてハーモニクスが聞こえると微笑まずにいられないので、この方の気持ちはすごくよくわかります。)

Dainouri Choqueという、フランスではその道で結構有名らしい方が講師だったのだけど、まさしくこのビデオの人のように、ハーモニクスでメロディを奏でていた。最初からハーモニクスのメロディが聞こえる人もいれば、最初は全然聞こえないのに、半日後、1日後、最後の最後になって聞こえるようになる人もいる。

 

まず初日、1日そうやってハーモニクスに耳を凝らして帰宅すると、子供達の騒ぎ声にエコーが聞こえるではないか!これまでもずっと毎日聞いていた、家での子供達の騒ぎ声が全く違って聞こえるのだ。他の人たちは「鳥の声」とか「風の音」とかが全く違って聞こえると言っていて、私はあまり情緒ない子供の叫び声だけど、それでもやっぱり聞こえ方が違う。

そして二日目。前日に引き続き、皆でバラバラな音を出してそれらを融合させて、その上部ハーモニクスに耳を傾けるという練習をしていたのだが、昨日までは自分の耳元で聞こえていた自分の声が、全然聞こえなくなっていた。そして融合した皆の声が、自分の体に入ってきたのだ。どれもこれもあまりに感覚的なものなので、言葉で表現するのは難しいけれど、あえて言えば、自分は自分の声を出しているのではなく、「融合した声」を響かせるパーツになったという感じ。そしてその時には、音の響きが耳元ではなく胸で感じられるようになった。

Dainouriさんが繰り返し言うのは、耳が開かれるようになると「自分の声が外で鳴るようになる」ということ。自分の声が自分の中から聞こえるのはなくて、まるで録音して流しているかのように、外で鳴っているように聞こえると。自分の声が聞こえなくなるのは、そこにたどり着くまでの過程だそうだ。さらに耳が開かれると、その融合した声の中にある自分の声が聞こえるようになるらしい。

 

ハーモニクスが聞こえるから何なんだ、という話もあるだろう。別に「ミ」だけ聞こえてればいいじゃないかと。

確かにそう言う考え方もあるだろう。実際、あまりにもハーモニクスが聞こえると、耳障りなこともあるし、どの音程を取るべきが判断に迷う時もある。自分の声が耳元で聞こえないと、自分の音程がよくわからなくなったりもする。

それでも、先ほどのビデオの人が力説しているように、ハーモニクスを聞けるようにするのは、すごく有意義なことだと私は思う。

私にとっての一番の理由は、自分と他人との境目がなくなるという、現在ではとても貴重な体験ができるからだ。複数の人の声が融合すると、自分の声というよりも、融合した声が自分の体に響くようになる。つまり、人の声も体の中から響く。これは、私にとっては素晴らしい体験だったけれど、ガードが固い人とかにとっては、非常に暴力的な経験になることもあるらしい。それで気が狂ったように泣き出してしまう人もいるらしい。そしてそれはすごくよくわかる。

それでも今日、あまりにも「私」という概念に凝り固まっている私たちには、こういう経験は非常に意義があると思う。

ここ数年、「体の使い方」に興味を持っていて、古武術の甲野さんの本を読んだり、そのつながりでヒモトレをやってみたりしている。その流れで読んだ内田樹著「修行論」に出てくる「我執を脱する」というのが、今回の経験を一番正確に表している言葉だと思う。合気道での組手は、相手と自分がぶつかるのではなく、二つが二頭龍のように一つになって動きが生まれるのだというところ。

3年目に入ったピラティスでも、先生がいつも言うのは「考えずに感じなさい」「脳が思い込んでいるオートメーションから自由になりなさい」ということだ。

つまり、私たちが「〇〇だ」と定義することで、弾かれてしまう様々な部分を、ありのまま感じると言うことなのだと思う。

私たちが思っているよりも、自分という存在は曖昧で、周りと混ざっていて、周りの影響を受けていて、そして自分が思っている以上に、自分は周辺部に存在しているのだろう。

 

この講習を経て、私にとって一番有益だったのは、自分のピアノに対するアプローチが変わったことだ。Dainouriさんが言っていたのは、声であれ楽器であれ、「音の発生→自分に戻ってくるエコー→発生源への作用→エコー・・・」というサイクルが確立されれば、安定するということだった。

私はピアノのタッチというものに気を配った記憶がなくて、正しく弾く(音程を)ということしか考えてこなかった。今の先生に習うようになって、音は正しくても、タッチがとか音色がとかという風に自分で気づけるようにはなったのだが、一体どうすればそこを改善できるのか、皆目見当がつかなかった。タッチを変えようと思って色々手の加減やら動きやらを変えてみればみるほど、袋小路に入り込んでしまう。

そして、今回の講習を経て気が付いたのは、私があまりにも音の発生源である手や指に集中しすぎていたと言うことだ。集中しすぎるあまり、私はピアノから出た音の響きに耳を傾けられていなかったのだ。集中することによって手が緊張してしまっていたこともあるだろう。

日曜日の講習のあと、試しにピアノを弾いてみた。それはまるで違う楽器だった。こんなにも表情があるのか。こんなに強く弾かなくても、こんなにも響くのか。これもまた、言葉では言い表せないものだけれど。

同じ楽器でも、弾く人によってまるで楽器自体が歌っているようだったり、耳を塞ぎたくなるような音が出たりする。それを私たちはテクニックによるものだと思いがちだけれど、実はそれは演奏者の耳が、どれだけ音に開かれているかによるところが大きいのかもしれない。

平和の解剖学

真夜中、子供部屋で赤ちゃんが泣いているのが聞こえてくる。
「起きなくちゃ」と思うけど眠くて起き上がれない。
隣で寝ている旦那はびくともしない。
自分は今晩だけでももう2回寝かし付けをしている。
おむつでもミルクでもなく眠れないだけなんだから、
私じゃなくてあなたが行ってもいいのに。

そんな例えをこの本のレビューで見かけて、まるで自分のことかと思って驚いた(もう数年前の話ではあるけど)。

そしてこの例が、心が穏やかさを失う瞬間なのだと今は分かる。

子育てという、エンドレスにタスクが生まれる状態にいると、どうしても自分の直感に逆らって、それを正当化したくなる場面が増える。子供が泣いているから行かなくては、という直感。でもその直感のまま行動できず(疲れとかのせいで)、代わりに(自己正当化する方法として)非難対象を探してしまうわけだ。

私たちの日常には、こんなシチュエーションが溢れている。イラっとする場面。そこから夫婦が、友達が、家族が仲違いしていく。

もう何年も前に初めて読んで、そしてこれまでに何度読んだかわからないこの「平和の解剖学」(なぜかそのままの和訳本は存在せず、「自分の小さな「箱」から脱出する方法 」というよくある自己啓発本みたいな題の本が一番内容が近いと思われる)。

実践できています、とは全く言えないけれど、何かしらでイライラしたり鬱々するたびに、自分は今、もしかして箱に入っているのではないか?と問いかけることで少し冷静になれる。

私の人生を変えた本の中の1冊でもあるので、頭の整理も兼ねて、以下に自分の読書メモを。

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問題を解決するには、間違っている部分を正そうとするのではなく、ものごとが正しく進むようにサポートする必要がある。

問題となるのは行いそれ自体ではなく、さらに深い部分、心持ちそのもの(すなわち心が穏やかな状態なのか戦闘態勢なのかということ)。
穏やかな状態で行えば、戦争でさえもより人間的に行える(サラディンの例)。問題のほとんどはconflictではなくcollusionである、つまり自ら相手を挑発している。

穏やかな状態なのか戦闘状態なのかは、すなわち相手を自分と同等の人間とみなしているか否かの違いである(Buberの’I-It’か’I-Thou’)。後者の場合、相手を人間とは見ずに、自分にとっての障害物とみなしたり、ステレオタイプ化、一般化(◯◯人は・・・など)してしまったりしている。

本来私たちは、直感で前者の目線で相手を見られるはず(ここは本書は性善説的)だが、その直感を自分で否定した場合、自分で自分を正当化する必要が生じて余計に防衛的になり、結果として、相手に対してより攻撃的になる。そして自分の行った攻撃をさらに正当化する必要が出てくるというスパイラルに陥る。
※ただし最初の直感以前にその相手に対して戦闘状態になっていれば(先入観など)、直感も沸いてはこない

よくある正当化のパターンは下記の4つ。
1.他人を見下すことで自分を正当化
2.被害者意識、自分はこんな仕打ちを受ける義理はないと考えて自分を正当化
3.良い人面をすることで正当化
※hyperactive体面保持(やらなければと思うことが多すぎて手に負えなくなる、そのせいで心の平穏が失われる)も3の一種
4.自分を卑下することで自分を正当化

人によってどのパターンに陥りやすいか等の傾向はあるが、これらは自分の心を理解するためのサブカテゴリーであって、どのようなパターンであっても結局は自分の直感を否定して、それを正当化するために行っていることであるという意味では同じ。

反対に、たとえ自分の直感を行動に移すことができなかったとしても、「できなくて残念だった」と思えるのなら問題ない。人生とはそういうもの。できなかったことを正当化して相手を責め始めるから、心が戦闘状態になってしまう。

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自分では、箱に入っていないつもりだったのに、まさしく2,3あたりの箱にどっぷり浸かっていた時に、そうでない友達の受け答えを見て感動したというエントリーを以前に書いた。

先日、「子供の感情」というテーマの討論会に参加した時、自分の体験を語る順番が回ってきて、繊細なラム君に、何か良かれと思ってやっても、結局本人が満足することがなく、延々と続くので、最後はこっちが怒って終わってしまうという話をした。児童心理士の人が言っていたのは、「自分の心と行いの一貫性が大事」ということだった。

子供のためにやってあげたい、という思いが、どこかの段階で、もう面倒臭いな、とかに変わったはず。そこで、子供のためだからと無理に続けるから、最終的に怒ることになると。それはすなわち直感のまま動くということと同じなのか。

「ごめんね、ママもう疲れちゃったから、一人でやってくれる?」と言えばいいのよって、その先生は言っていた。そうか、ちゃんとできない自分を自分が認めてあげられれば、旦那にも子供にも、無意味に喧嘩を売らなくて済むということなのだな。

何年経っても、全然前進していない自分にちょっとがっかりするけれど、この本に出会っていなかったら、自分はもっといろんなことにピリピリ目くじらを立てて、怒っている人間になっていたと思うので、これからも何度でも読み直していきたい一冊。

想い

日経オンラインを読んでいて、一つの記事が目に止まった。

破格の国産ワイン 造リ手は早大中退のシングルマザー

早大、ワイン・・・もしかして。

読み進めると、やっぱり!!!ぶどう収穫隊参加者だった。多分年度は違うけど。

 

ぶどう収穫隊は様々な私大でフランス語を教えるワイン好きの先生たち4名が企画運営していた、大学生向けのフランスワインツアーだった。大学2年目のフランス語の担任がたまたまその中の一名で、ほとんど話したこともなかったけど、フランスに行くチャンスとばかりに同じクラスの友達と一緒に参加した。私にとっては初めてのフランス、ヨーロッパだった。

ツアーは確か3週間ほど。フランス各地のワイナリーを巡って、最後はコルシカ島でぶどう収穫を手伝うというものだった。家族とは別に海外に行くのは、多分これが初めてのことだったと思う。パリはもちろん、ボルドー、ブルゴーニュ、色々なところを回った。ワインは飲めない下戸だったけど、口に含んで味わってから出してもいいということで試飲もした。ぶどう収穫はなかなかの重労働だったけど、初めてのことで楽しかった。先生も教室で見るのとは全然違って、昆虫オタクだったりオヤジギャク連発だったり。

自分も含めて海外は初めてとか、実家から出たこともないような学生たちを40人近く連れてフランス中を周るなんて大変だろうに、先生たちも物好きだなぁと思ったのを覚えている。

先生4人の中の中心で隊長と呼ばれていたのが、早稲田大学の加藤先生だった。加藤先生はもちろんフランス語が上手で、でも何よりもとても素敵な声の持ち主だった。低いけど柔らかく、少し鼻にかかった声だった。ワイナリーの人の説明を詳しく日本語に訳してくれたり、私たちの質問を通訳してくれたり。学生たちにも気さくに話しかけてくれて、いつも笑顔だった。移動中のバスの中、音楽が好きという話になったら、コルシカ民族音楽のi muvriniを教えてくれた。それは後日購入し、今でもよく聞く。

収穫隊は何年も続いていて、時々同窓会のようなものもあったらしい。私はその後音楽の方にのめりこんで学校にはほとんどいかなくなり、卒業後もすぐに渡米してしまったため、ほとんど参加できなかった。時々、コルシカワインの購入希望のメールなどのやりとりで、隊長と連絡をとっていた。

 

「春に亡くなった先生の遺稿小説に文を寄せることになっていて、それが30日までの締め切り。その先生とのつながりを思うと、なかなか文にならなくて。

しかしほんと人って不思議だよ。生きてるんだなぁ、心の中で。」

 

数年後、隊長にメールで入籍を報告した。隊長からのお祝いメールは次のように締められていた。

 

「お元気で。そして何もなくても、時にはメール下さい。」

 

それなのに、なぜだろう。

アメリカでの生活が始まり、仕事が始まり、そのうちに妊娠してフランスに引っ越して子供が生まれ、慌ただしく毎日が過ぎて行く中で、私は一度も隊長に連絡を取らなかった。

そして2013年の年明け、実家に届いたお別れ会のおしらせで訃報を知った。前年の11月に、くも膜下出血で亡くなったとのことだった。

 

私は隊長が大好きだった。頻繁に会うことはなくとも、その人が今日も元気で別の場所で楽しく生きているのだと思うだけで、自分の一日が楽しくなるような、そんな人だった。

それなのになぜ、連絡を取ろうとも思わなかったんだろう。そのうち、そのうちにと思っているうちに5年以上が過ぎてしまった。「何もなくても」って、わざわざ言ってくれたのに。

訃報に呆然としながら、過去のやりとりを読み返して、上の言葉たちを見つけた。

 

不思議だよ。生きてるんだなぁ、心の中で。

 

私は隊長への返事にこう書いた。

以前は、自分は自分自身で確固として存在するものだと考えていたのですが、他人に映る自分の複合こそが自分であり、自分が散った後も残っていくものなのだと最近考えています。
だからこそ、自分が消えてからも誰かの心の隅っこにいさせてもらえるような生き方をしたいです。

冒頭のワインの造り手の心の中にも、隊長はしっかりと生きていることだろう。

私にとって、どこまでも目標のような人であり、生き方であったのだと思う。

ワインが好きで、学生を連れて行くようになり、その中の一人がついにはワインの造り手になった。しかも世界中から注目されるような日本産ワインの。

隊長は、きっと今頃、祝杯をあげているのだろうか。

サウナ(もどき)

フランスで暮らしていて、恋しくなるものは何かと考えると色々あるけれど、私にとってはお風呂もその一つ。我が家にも浴槽はあるのだけど、フランスではよくあるシャワーと一緒の浴槽なので、シャワーで洗ってから最後にもう一回温まるとかってことができない。またお風呂場も、もちろん洗面所と何の境もなく一部屋なので、湯気モウモウとした浴室にはなかなかならないし、何よりすぐにお風呂が冷めてしまう・・・。ボタン一つで好きな温度のお湯がはれて、しかも温度を保ってくれるなんて、日本のお風呂って何て素晴らしいんでしょう。

で、1年ほど前に給湯器を付け替えて、かなり熱いお湯が安定して出るようになったのはいいのだけど、やはりこの季節になるとお風呂場自体が寒くて、お湯に浸かってる部分は温かくても、じっとり汗をかけない。どうも全身の発汗作用が落ちている気がするので、これはサウナだなと思ったわけです。

サウナもあるプール施設もあるのだけど、こちらのサウナは水着着用。だし、そもそも徒歩圏ではないので、サウナに入った後にトラムとか車で家まで帰るのは、多分私には続けられない。ということで、なんとか家でサウナができないかと調べてみました。日本語で調べると、100円のビニール傘で同じ効果があるというので、手持ちの傘で試したところ確かに汗はいっぱいかける!でもこちらの浴槽だとサイズが今ひとつ合わないのと、深さがないから縁にかけられなくてずっと持ってないといけなくて疲れる。

1ヶ月ほど使い続けたのだけど、これはこれからの冬には絶対必要だと判断して、ついに買ってしまいました、ぽかぽか温浴てんと!サイズもちょうど家の浴槽にぴったり!これでテントの中でゆったり両手自由に過ごせます。これ使って入浴すると、出た後もずーっと汗かくし寒くならない。体の芯まで温まってる!(といってもそれが体にいいのかどうかは不明だけど)

フランスって夏が乾燥してるし、基本的にあんまりドバドバ汗をかくことがない。日本だと大して運動してなくても夏にはどうやっても汗かくし、お風呂に入ればジワジワ汗をかく。これは多分体には結構大事なことなんだと思うのです、不純物を出すという意味で。フランス人の方が体臭がキツい人が多いというのはよく聞きますが、これは多分、汗腺が発達していない人が多いからなのではないかと。我が家の旦那さんも例に漏れず体臭が強い。そして汗をかかないので、暑い日にはすぐ軽い熱中症になって頭痛に苦しむことになります。汗をかけるって本当に大事!

今日行ったChronographeという考古学博物館みたいなところで、Rezeの遺跡からテルマエの跡地も見つかったとあった。それだけ衛生とか健康のために大事だったってことなはずなのに、一体どうしてヨーロッパ文化から公衆浴場が姿を消してしまっだろう・・・。

紙に書く

高校生くらいのころから、ずっとリフィルの8つ穴手帳を使っていた。日付を書き込んで、予定を書き込んで、シールを貼ったり、コンサートチケットを貼ったりしていたっけ。ここ数年はそんなに予定がなくなって手帳が必要なくなったのと、家族のこととかで旦那さんと共有する必要性が高くなって、Googleカレンダーとか携帯のカレンダーがメインになっている。それでも時々、やっぱり紙の手帳がいいなと思って買ってみたりするのだけど、結局使わなくなってお蔵入り・・・ということの繰り返しだった。

そもそもなぜ使いつづけられないかというと、自分の好きな手帳がないから。マンスリーとウィークリーが欲しくて、しかもウィークリーは左側のページに7日分で右ページは空白がいい。それはもちろん上記のリフィルがそうだったからなんだけど、そのリフィルはもう廃盤。ということで、最近また手帳が欲しい熱が再発して色々調べてみて、結局自分で作るのが一番早いのではという結論になった。でも枠から全部書き込むのは、これまた長続きしなさそうだなと思っていたら、ちょうど良さそうなBullet Journalというのを発見。適当に始めて適当に続けられるこの感じ、素晴らしい。

ということで早速、始めました。形から入るのでLEUCHTTURM1917ノートを買って、マンスリーログは月間カレンダー風にして、デイリーログをつらつらと。

Bullet JournalはJournalというだけあって、手帳というよりももっとノートに近い。でもカレンダー機能そのものはGoogleカレンダーとかでもまったく不満はないので、むしろそれ以外のタスクとかメモとかアイディアを一ヶ所にまとめていくのに、このスタイルはすごく使いやすいと思う。

こうやって紙に書くようになると、どんなにスマホが便利でも、思いついてそれを入力するまでのタイムラグというか、手間というかが、紙に書く場合よりもずっと大きいのだなというのがわかる。紙に書くってすごく直感的。だからきっといろんなアイディアが広がりやすいんだろう。

いろんなメモとか覚え書きとか、まとまらなくて処理に困っていたので、これからは全部ここで解決!2018年くらいは頑張って使いつづけますよ。

2016ー2017

フランスは目下、年度末です。子供がいるとどうしても学年度で生活が回っていくので、なんとなく今年度を振り返ってみようかと。3人目ももうじき2歳で、ようやっとほっとける時間が増えてきたので、いよいよ本格的に趣味が分散し始めた感じです。

とりあえず今年度から始めたこと。

・ピラティス

3人目出産後から腰痛がひどくなり、一時期は夜中の2時とか3時に痛くて目が覚める時期があって、病院でレントゲンもとってもらったけど、骨には大して異常はないので筋肉が伸びてしまっているのでしょうということで、ついに始めたピラティス。なんとかドロップアウトせずに1年通いきりました。そしてハマった。日本語ですら名前を知らない筋肉を使うことを少しずつ覚え、自分の体でできると思わなかった動きができることを知り、なにより目に見えてお腹のタルミが減って腰の痛みがなくなった!多分私のそもそもの筋力があまりにも低かったからこそ効果が劇的だったのだとは思うのですが、以前ヨガとかちょっとやったときも、こういう筋肉の実感というのはなかったので新鮮です。普段いかに力を抜いてだらーっと過ごしているのか、ピラティスに行く度に痛感します。肉体労働と呼べるものはどんどん減りつつあって、筋肉も使ってもらえることが少ないんだろうなぁ。

 

・ピアノ

15年振りくらいにピアノを習い始めました。日本では100%クラシックの先生のもと、ツェルニー、ブルグミューラー・・・みたいな感じでいわゆるクラシックピアノ街道をゆったり進んでいたのですが、今回の先生は伴奏歴も長いし、ジャズとかでもジャンルを問わず音楽命!って人で、これまで見たことも聞いたこともないないような曲をくれるのでおもしろいです。話が面白すぎて授業後おしゃべりの時間が長くなりすぎるのが困り者。やっぱりオタク万歳!

 

・先生

まあこれは昨年度から続けてる部分もありますが、日仏ミックスの子の授業だけでなく、フランス人の子供たちに日本語を教える先生も始めました。子供を教えるのは楽しい。自分が目指すのはそこだな、と思う。

 

・歌

コーラスはすでに5年目(!)ですが、こちらも新しく小グループに入りました。自分でブルトン語の曲を書く人がいて、女性4声、一人一パートでやってみない?との誘いに二つ返事で引き受けてしまった。コーラスだけでもコンサートだ練習だって結構時間をとられるのに、さらにこのグループの練習で旦那さんには申し訳ないくらい週末の時間がなくなっていくのですが、でもこれは本当にまたとない経験。自分のパートを一人で歌うって、ある意味一人で自分の曲歌うよりも難しい。つられるし、合わせないといけないし。でもコーラスのように大勢の声が溶け合っているのも好きだけど、4つの声が4つのまま広がっていくというのもなかなか壮観です。歌詞がブルトン語で暗記前提なので、家でブツブツひたすら覚えるのみ。ボケ防止になるかしら。

・チアシード

hosikoさんのブログで見かけて、直後にBiocoopで売っていたので思わず買ってしまったチアシード。ミルクプティングみたいのは私はどうも飽きてしまってあまり続かなかったんだけど、ただ水に一晩浸しただけのチアシードをフランスの甘いムースデザートにかけると、プチプチ食感が加わって美味しいことを発見。コブとラムもハマって、毎食後のデザートにみんなでチアシード争奪戦です。目に見えて何か変わったとは言えませんが、とりあえず風邪はひいてません。食べつづけて冬乗りきれたらまた報告します。

 

フランス語もブルトン語もアラビア語も、カリグラフィもモザイクも庭仕事も、今年度はほとんど何もできなかったけど、それはまた未来のお楽しみにとっておいて、しばし夏休みを満喫しましょうか。自分の体内時計がすっかりフランス式になっているなぁ。

ゴミ

数年前この街に引っ越してくるまでずっとマンションかアパート暮らしだった私は、ゴミ収集日というものを頭にインプットした記憶がない。ゴミが溜まったらマンションかアパートのゴミ捨て場に捨てにいくだけ。パリのアパートに至ってはダストシューター(!)があったので、ほぼそれで済んでいてゴミ捨て場にさえ行かなかった。

便利、は便利ですね。でもそうすると自分が出すゴミを意識しない。出てもすぐ見えなくなるから。地球環境のためにとかっていう偽善的な意味ではなくても、単純にどっちの方がゴミが少ないかっていう観点がそもそも持てなくなる。

一軒家に住み始めて早5年。しかもここはゴミ収集日は週に1日だけ。祝日とかストライキで収集日を逃すと2週間分のゴミが溜まっていく。環境のために、とかではなく自分のために(家が臭くならないように)、自然とゴミを減らそうとか臭わないように工夫するようになるわけですね。

例えば紙オムツがいかに臭くてかさばるゴミかということ。生ごみをコンポストするとゴミって意外と臭わないということ。そして加工食品はゴミが多いということ。

もしずっとアパート暮らしだったら、私はそういうことに一生気がつかなかったかもしれない。アパートに住んでいても子供がいればゴミは増えるしゴミ出しの回数は増えるだろうけど、それは面倒が増えるというだけであって、ここまで直接的にゴミを減らそうという動機になりにくい気がする、私の場合は。

便利さを追求するその先に何が待っているのか。ボタン一つで物が買えて、配達される。ゴミも誰にも会わずに大きなゴミ箱にいれておけばいいだけ。足を運んで、会話をして、汗を流して何かをする必要はぐっと減っていく。誰にも迷惑をかけていないというような錯覚。私たちにはより多くの自由な時間ができる。そしてそれを何に使う?ネットサーフィン?そんな人生嫌だなぁ。

という自問自答に明け暮れる今日この頃です。