大事なのは、行いじゃなくて想いなのかも

なぜアリーナ?無観客ならスタジオとかもっと小さいホールでもいいのでは?

というのが、サザンの無観客ライブ配信のニュースを聞いたときの第一印象だった。

実際に今日の配信を経験して、個人的な意見としてはもっと小さい会場でもいいと思う部分はあるけれど、サザンとしてのアリーナでの開催という選択がよく理解できたように思う。

それはつまり、ここに来たいけど来られない、ここにいて欲しいけど来てもらえない人たちのために、あの場を作ったんだなということ。

 

パフォーマーとして、人のいない客席を前にするほど寂しいことはないと思う。エネルギーの交換ができない。実際桑田さんも、出だしは自分の状態をもっていくのに時間がかかっていたように見える。時々映り込むスタッフたちが仕事ほっぽってフリを踊るのは、その場に少しでもエネルギーを回すためだったのかな。

 

アリーナじゃなく、もっと違う形のステージを目指す道もあったはずだ。サザンメンバーだけで、小さなライブハウスからやるとか。でもあえてアリーナから配信したのは、1つはここにいて欲しい人たちへの想いの大きさから、そしてもう1つはアリーナのスタッフに活動の場を与えるためだったのではないかなと思う。

今回の無観客ライブ配信のチケットがどれだけ売れたのか、果たして費用が賄えるほどだったのかは分からない。でもサザンほどの知名度がないアーティストの場合、こういう試みが赤字になるリスクも当然大きくなる。だから必然的に、もっと小さい場所でという方向に向きやすい。だからこそ、大型の会場も必要なんだよ、そこに意味があるんだよ、アリーナの皆さんにも活躍の場を!というサザンなりのメッセージだったのかなと思った。

 

全てがオンライン化する中で、オンライン前のやり方をそのまま持ち込むことの無意味さもよく指摘される。今回のコンサートも、リスク回避や効率性だけを考えれば、もっといい方法は確かにあっただろう。

でも個人的には、敢えてこの方法を選んだサザンを誇りに思う。無駄があってもいいじゃないか。赤字になってもいいじゃないか(そういえる余裕があることが前提にはなるが)。皆への思いを一番届けられる方法でいいじゃないか。

大事なのは何を大切にしたいのか、その想いがぶれないことなんだなと思った。その想いが伝わるかどうかで、同じ行為でも違う意味で解釈できてしまうのだから。サザンが、桑田さんが、いろいろな大人の事情もひっくるめて今回の挑戦をしたことに、心からの賛辞を送りたい。少しでも多くの人が、サザンの想いを受け取って、その毎日に笑顔が咲きますように。

 

 

細菌のバイオーム

COVIDによる外出制限で、街から人や車がいなくなり、空気がきれいになって動物達が生き生きしている、という記事をいくつか目にする。

ここナントも、普段は常に空に飛行機雲が何本か見えるのが、全く見えない(たしかまだ空港は閉まっている)。確かに鳥達や猫達が、いつもより自由に過ごしているように見える。

でも1月の中国の時点から、COVID関連のニュース映像を見るたびに、私の中では一つの懸念が大きくなっている。それは、消毒という名の細菌バイオームの破壊という懸念。

COVIDの渦中にあって、そういう発言は不謹慎と取られるのかもしれないが、街中に消毒液を散布し、人々が手を数時間おきに消毒するというのは、細菌の世界から見たらものすごい大規模侵略&虐殺になるはずだ。

細菌も命あるものだからとかいうことではなく、目に見えない細菌は私たちの知らない均衡の上に成り立っていると考えると、私たちのこの潔癖とも言える消毒行為によって、その絶妙なバランスが崩れ、これまで抑えられていた細菌が大繁殖するリスクが高くなると思うからだ。それが私たちに直接的な症状を起こすものでなければ、私たちがその事実に気づく頃には、もう手遅れになっているほどに細菌バイオームの構成が変化してしまっているだろう。

無責任な仮説を述べるとすれば、他の対抗するウィルスがいたほうが、COVIDの広がりを抑えられる可能性だってあるだろう。手洗いうがいが大事であることは認めるとしても、毎回アルコール消毒をする必要が本当にあるのだろうか。もっといえば、そもそも子供達が学校で一緒に1日過ごすのに、毎時間手を洗わせることでCOVIDは防げないと思うのだ。むしろ、子供達の肌の常在菌バランスが崩れてしまうだけなのではないか。

昨年の秋頃に、細菌関連の本を2冊ほど読んだ。

あなたの体は9割が細菌

すべての不調をなくしたければ除菌はやめなさい

これまでも藤田さんの著書などで、腸内環境や腸内細菌によって免疫に影響があるというのは知っていたが、腸内細菌が脳神経にまで影響するという新しい発見や、私たちが「自分」だと思っているものの一部は細菌による作用だったりすることを知った。そういう視点から考えると、むやみやたらな消毒は、人間自身への攻撃に他ならない。

消毒=是という考えもまた、バランスが崩れたものだと思うので、そこをもう少し考えていきたいし、今のこの集中消毒による細菌バイオームの変化を意識して見守っていきたい。こちらの記事を読んでそんなことを考えた。

 

天下無敵

成長率がマイナスだとか、減益だとか、リーマンショック以来の危機だといった文面をよく目にする。

おそらくは今生きている人間の誰一人が経験したことのないようなパンデミックを前にして、これまでの状態での経済と比較して、今の危機を表現することの意味はなんだろうか。

そもそもの前提(グローバルな取引、物流、人の移動ができない、普通の経済活動ができない)が崩れている今、これまでと同じ基準で成長率をはじき出して、それがマイナスだと騒ぐことに意味はあるのか。

内田樹氏は著書『修業論』の中で、「天下無敵」という言葉の独自の解釈を述べている。すなわち、「天下無敵」の「敵」とは「全ての敵を斃す」という意味ではなく、「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」であり、したがって「天下無敵」の意味するところは、敵を「存在してはならないもの」ととらえずに、特段気にしないという心的態度のことである、というものである。

 

私たちの「最初のボタンのかけ違え」は、無傷の、完璧な状態にある私を、まずもって「標準的な私」と措定し、今ある私がそうではないこと(体調が不良であったり、臓器が不全であったり、気分が暗鬱であったりすること)を「敵による否定的な干渉の結果」として説明したことにある

因果論的な思考が「敵」を作り出すのである。

『修業論』内田樹著

 

ウィルスに善悪はない。

「こうあるべき」と考えるから、現状が「危機」になる。今の状態でできることは何か、今の社会が回っていくとはどういうことか。

これまで常識だと思っていたものを捨て、今ある現実から新しいパターンや機会を見出す。それこそが、この前代未聞のパンデミックを「敵」とせず、乗り切る方法なのではないか。

言うは易しであることは百も承知だが、今この時こそ、この天下無敵の視点が本領を発揮するはずだ。前提を疑い、思い込みを捨て、現状に集中して、できることを為す。そうすることでしか、新しい道は拓けないのだから。

時間を過ごすための家

 

新型ウィルス騒ぎが起こる前、知り合いのフランス人共働き家族の1日は、次のような感じだった。

仕事が早く始まる父親、仕事は少しあとだけれど子供を学校に送っていくため早く家を出る母親。子供達は急いで朝ごはんを口に流し込む。朝食の食器を食洗機にセットし、毎朝7時頃にバタバタと順番に出かける。

昼間、家には誰もいない。時々、通の家政婦が掃除に来るくらいだ。子供を学童に迎えに行った父親か母親が帰宅するのが夜7時頃。そこから夕飯の支度をして、子供の宿題をみて、シャワーを浴びせて寝かせる。子供が寝るまでは時間との戦い。子供が寝てからやっと、大人の時間ができるが、翌朝もまた早いので、それは3、4時間の話。夫婦で映画を見たり、喋ったり、それぞれネットサーフィンでもして過ごせば、あっという間に1日が終わる。

平日5日間がそんな感じで過ぎていき、週末も買い物・洗濯・掃除・イベントで過ぎていく。彼らが家族皆で家で過ごす時間というのは、実はそのほとんどが寝ている時間なのだ。

家は寝るための場所と割り切っていれば、それもいいだろう。でも実際には、多くの人が家にこだわり、間取りにこだわり、住居に高いお金を払っている。我が家も例に漏れず、ローン返済中。そうであれば、今のこの外出禁止期間は、これまで外で仕事をしていた人々が、高い対価を支払って手にしている住居を満喫する機会と考えることもできる。寝るだけの場所ではなく、時間を過ごすための場所としての住居を満喫する期間なのだ。

この騒ぎが収束しても、人々が家に求めるクライテリアは以前とは大きく変わるだろう。物も人も集中している都会に住むメリットが大きかった以前と比べて、人が集中しているからこそのリスクや場所がないというデメリットを気にする人が増えるだろう。インターネットと郵便事情さえ整備されている地域なら、割と多くのことを問題なくこなして暮らすことができるということに気付いた人も多いはずだ。車を持つことも、以前はネガティブな印象が強くなっていたが、公共交通機関のリスクが露呈した今、一人で好きな時に好きなところに行ける交通手段の価値というのも見直されると思う。

これまでの世界は、場所によって多少の差はあっても、基本的には都会への一極集中だった。今後も都会の便利さや物理的な機会の多さと言った部分は変わらないだろう。だが、新型ウィルス騒ぎで新しいクライテリアが加わることで、今までよりは地方に向かう流れが強くなるのではないか。新型ウィルスがある程度落ち着いた時こそ、過疎化に悩む地域に就労世代を呼び込むには絶好のタイミングかと思う。

紙に書く

高校生くらいのころから、ずっとリフィルの8つ穴手帳を使っていた。日付を書き込んで、予定を書き込んで、シールを貼ったり、コンサートチケットを貼ったりしていたっけ。ここ数年はそんなに予定がなくなって手帳が必要なくなったのと、家族のこととかで旦那さんと共有する必要性が高くなって、Googleカレンダーとか携帯のカレンダーがメインになっている。それでも時々、やっぱり紙の手帳がいいなと思って買ってみたりするのだけど、結局使わなくなってお蔵入り・・・ということの繰り返しだった。

そもそもなぜ使いつづけられないかというと、自分の好きな手帳がないから。マンスリーとウィークリーが欲しくて、しかもウィークリーは左側のページに7日分で右ページは空白がいい。それはもちろん上記のリフィルがそうだったからなんだけど、そのリフィルはもう廃盤。ということで、最近また手帳が欲しい熱が再発して色々調べてみて、結局自分で作るのが一番早いのではという結論になった。でも枠から全部書き込むのは、これまた長続きしなさそうだなと思っていたら、ちょうど良さそうなBullet Journalというのを発見。適当に始めて適当に続けられるこの感じ、素晴らしい。

ということで早速、始めました。形から入るのでLEUCHTTURM1917ノートを買って、マンスリーログは月間カレンダー風にして、デイリーログをつらつらと。

Bullet JournalはJournalというだけあって、手帳というよりももっとノートに近い。でもカレンダー機能そのものはGoogleカレンダーとかでもまったく不満はないので、むしろそれ以外のタスクとかメモとかアイディアを一ヶ所にまとめていくのに、このスタイルはすごく使いやすいと思う。

こうやって紙に書くようになると、どんなにスマホが便利でも、思いついてそれを入力するまでのタイムラグというか、手間というかが、紙に書く場合よりもずっと大きいのだなというのがわかる。紙に書くってすごく直感的。だからきっといろんなアイディアが広がりやすいんだろう。

いろんなメモとか覚え書きとか、まとまらなくて処理に困っていたので、これからは全部ここで解決!2018年くらいは頑張って使いつづけますよ。

ゴミ

数年前この街に引っ越してくるまでずっとマンションかアパート暮らしだった私は、ゴミ収集日というものを頭にインプットした記憶がない。ゴミが溜まったらマンションかアパートのゴミ捨て場に捨てにいくだけ。パリのアパートに至ってはダストシューター(!)があったので、ほぼそれで済んでいてゴミ捨て場にさえ行かなかった。

便利、は便利ですね。でもそうすると自分が出すゴミを意識しない。出てもすぐ見えなくなるから。地球環境のためにとかっていう偽善的な意味ではなくても、単純にどっちの方がゴミが少ないかっていう観点がそもそも持てなくなる。

一軒家に住み始めて早5年。しかもここはゴミ収集日は週に1日だけ。祝日とかストライキで収集日を逃すと2週間分のゴミが溜まっていく。環境のために、とかではなく自分のために(家が臭くならないように)、自然とゴミを減らそうとか臭わないように工夫するようになるわけですね。

例えば紙オムツがいかに臭くてかさばるゴミかということ。生ごみをコンポストするとゴミって意外と臭わないということ。そして加工食品はゴミが多いということ。

もしずっとアパート暮らしだったら、私はそういうことに一生気がつかなかったかもしれない。アパートに住んでいても子供がいればゴミは増えるしゴミ出しの回数は増えるだろうけど、それは面倒が増えるというだけであって、ここまで直接的にゴミを減らそうという動機になりにくい気がする、私の場合は。

便利さを追求するその先に何が待っているのか。ボタン一つで物が買えて、配達される。ゴミも誰にも会わずに大きなゴミ箱にいれておけばいいだけ。足を運んで、会話をして、汗を流して何かをする必要はぐっと減っていく。誰にも迷惑をかけていないというような錯覚。私たちにはより多くの自由な時間ができる。そしてそれを何に使う?ネットサーフィン?そんな人生嫌だなぁ。

という自問自答に明け暮れる今日この頃です。

メディアのあり方

日本を離れて8年が過ぎた。
アメリカでもフランスでも普段あまりテレビを見ないので、時事問題には疎くなった。
それでも大きいニュースや興味のあるものは人づてやネットで入ってくるし、そもそも知らないと困るニュースなんてないのかもしれないとも思う。

ブラウザのデータを整理したのでログイン情報が消えてしまって、mixiにいったらトップページのmixiニュースがででんとあった。
そしてその第1位が『死の直前「パパと呼び続けていた」 厚木の男児遺棄事件』。なんだそれって、心が痛むのは分かっていたけど開かずにいられず、関連ニュースも読んでしまった。次いつ帰ってくるか分からないお父さんを、それでも他に頼る人もなく待ちつづけるしかなかった、息子と同い年の男の子のことを思うと本当に胸が痛んで涙が出てくる。

でも、でもね、それを伝えたくて日記を書いているわけではないのです。
mixiニュースのソースは朝日新聞で、同じような男の子の生活を伺わせる記事がたくさんある。その後読売新聞を見てみるとそういう記事は皆無。白骨化遺体が発見されたというニュースと、もう一つは「厚木男児遺体、発見遅れ多くの課題…神奈川」

以前からワイドショーと報道の違いというのは感じていたのだけど、今回の朝日と読売のずれはまさしくそのままだと思った。男の子がいかにかわいそうか、お父さんがいかにひどいか、それをできる限りドラマチックに伝えるのがワイドショー。でもそれは見ている者を一時的な感傷に浸らせるだけ、あるいはすべて分かったような気にさせるだけで、そこに問題提起や建設的な問いかけは存在しない。それってようは野次馬のおばちゃんたちのひそひそ話と同じで、あることないこと話して勝手に盛り上がって、次の瞬間にはコロっと忘れてしまうってことなんだろう。

報道ってなんなのか。高校生の頃、私の夢はニュースキャスターだった。女子アナではなく。なぜなら報道がしたかったから。それはつまり、社会にむけて問題提起をするということに憧れていたのだと思う。

地球上で、日本で、フランスで、あるいはこの町で、毎日たくさんの人が傷付けられ、辛い思いをし、命を落としているはずだ。中には誰にも気づかれないままのケースもあるだろう。それら一つ一つに思いを馳せるのは個人の自由だ。でもメディアはそうであってはいけないと思う。メディアは同情を呼ぶために、読者や視聴者を感傷に浸らせるためにあるのではなく、そこにどんな問題が存在しているのか、我々がなにを変えていかなければいけないのか、そういう問題提起を行うためにあるはずだ。

今回はたまたま朝日と読売だったけど、日本のメディアは媒体を問わずワイドショー型の報道が多い。それはもちろん議論を苦手とし付和雷同の精神をもつ日本人の性質から生じた現象なんだと思う。でも会社にしろ政治にしろ、大きいものに巻かれれば安定が約束された時代はとっくに終わっているのだから、メディアもマスも変わらなければいけないんだろう。

自分では変わっていないつもりだけど、三度の飯より議論が好きなフランス人たちに私も影響されているのかもしれない。

Give Peace a Chanceって歌うんだ

今年度の初め、私が参加しているコーラスで使用している部屋について他の音楽クラスとバッティングがあり、多少もめた。といってもどちらもいい年した大人だし、市営の施設なので市役所の人も間に入って無事解決。結果的に私たちがその部屋を使えることになった。

解決後初めての練習日、部屋でウォームアップをしていると、移動させられたクラスの先生がやってきてこう言った。
「ここにある楽器はとても高いものなんだ。触らないでくれ。」
私たちはピアノ以外の楽器は使わないので「分かってます。気をつけますよ。」と答えた。
先生は続けた。「分かっていない、今あなたが寄りかかっている楽器は50万するし、あの楽器の上にコートが置いてあるなんてもってのほかだ。」
こっちにも言い分はある。その楽器たちのせいでコート掛けが塞がれて使えないのだ。
正直に言えばムッとしたし、多分多くの人がそうだった。

私はそのやりとりを見ながら、そこに敵意を込めなければ、こっちも譲ってくれてありがとう、移動させてしまってごめんなさいって言えただろうにって思っていた。どこからか負が入り込むとそれは回り回ってなかなか消せないと思うから。

でもその時にコーラス仲間の一人が言った。「そうね、確かにそういう楽器の使い方はよくないわね、ごめんなさい。」
ムッとして動こうとしない人もいたし、無視していた人もいた。
でも彼女は別に苛立つでもなく穏やかなまま仲間たちにコートをどけましょうと呼びかけた。
先生は黙って出て行った。
いきなりの出来事になんだあれと悪口を言う人もいたけど、私はただ感動した。

私は流されていないつもりだった。でも多分私が口を開けば、負の言葉しか出てこなかったと思う。それは直接相手を攻撃するというより、自衛的になるという意味での負だ。つまり、相手からいきなり攻撃されたという口実を得て、私たちは悪くないのにという自己正当化が私の中では着実に起きていたのだということが、そうでない彼女の言動を目の当たりにして身に染みたのだ。

Anatomy of Peaceにはこのまんまのことが書いてあったではないか。

相手の発した「負」を、批判したり受け止めたりするのではなく流すのだと、気に留めないということなのだと分かった。分かったからといってできるようにはならないけど、でも残念ながら発生してしまった負が、簡単に暴発してしまう負が、穏やかに静まっていくのを目の当たりにして、私もこういう大人を目指したいと強く思った。

戦争とか世界規模のことだけでなく、夫婦間とか親子間とか友達同士で起こるような諍いも、多分そのほとんどは負の増殖によるものだと思う。もともとものすごい諍いとか不平等が存在するというよりも、どこかで生まれた小さな負があっというまに暴発してしまうだけ。直接相手を攻撃する人だけでなく、それを批判的に見ている私のような偽善者もまた負を増長している。

浮いた器用貧乏

昔からグループが苦手だ。それは自分が天邪鬼だからだとずっと思っていた。結局は周りに反発することでしか自己を確立できない情けない性だと。でもそれ以前に、そもそも私は周りに馴染めていたことがなかったのかもしれないと、先日クローンと話していてふと気が付いた。

多分、私はずーっと浮いていたのだ。
中学高校大学を通じて、いやむしろその後だって。
この歳になってようやく分かりました。いや、ようやく認められました、かな。

外国にいると自分が外国人になるので、それだけで浮いた存在になる。でも私にはそれが逆に心地良い。なぜかと考えてみれば、周りに馴染めない自分に言い訳をくれるからだ。そして外国人であることが絶対的な事実だから、周りに馴染めないことへの罪悪感とか自己嫌悪もない。(別に海外で殻に閉じこもることをすすめるわけでも正当化するわけでもありません)

日本にいたときだって罪悪感とか自己嫌悪に苛まれていたわけではない。ただ周りのノリについていけないことやグループが苦手なことも、ようは自分がカッコつけて斜に構えてやっていたんだと思っていたんだけど、そうではなくて本当にやれなかったんだと今更気づいたのだ。
どんなに現地語が上達しても、どんなにそこの生活習慣になれても、いやむしろ慣れれば慣れるほど、部分的に日本人としてのアイデンティティが強くなるように、どこにても私の中ではそこに染まりきれない、100%はそこにいない自分が居たように思う。よく言えば場所に依存していなかったんだろう。悪く言えば馴染めなかったのだ。

付和雷同の精神が根強い日本では、仲間内であれ学校であれ部活であれ会社であれ、ある種そこに染まることを要求されることが少なくない。そして私はそれができなかった。でもね、一見上手に染まっているように見える人たちだって、別に100%染まっているわけではないのだと思う。内面にはそれぞれの世界があるんだろうし、それがどんなものかなんて他人にはわからない。むしろそういう人は使い分けが上手なのかもしれない。そして私はそれが下手なのだ。

つまり私は、浮いた器用貧乏。なんか寂し気だけどちょっと笑える。
でもこんな私を浮いた存在としてではなく、対等に見てくれる数少ない友人や家族がいてくれるんだから、幸せ者だと思う。

浮いた器用貧乏から浮いてるあなたへ

もしも今、あなたが周りに馴染めずに辛い思いをしているとしても、どうか仲間外れになることを恐れないでください。一人でいることを怖がらないでください。一人でちゃんと立っていれば、いつか必ずやっぱり一人でちゃんと立っている人々と出会えるしつながれますから。

生産性

世間より一足早く仕事が夏休みになったので、家族3人、
4月にバルセロナ郊外に引っ越してしまった元ご近所家族を訪ねた。
家族全員初スペイン。
考えてみると親戚めぐりじゃない本当の家族バカンスは初めてかも。

la mer

6月とは言ってもバルセロナは暑い。
特に昼12時頃から17時すぎまでは、気温云々というよりも
太陽光線そのものが強力過ぎてとても外にはいられない。
パリなら多少暑い日でも日陰は涼しいくらいだけど、
残念ながらバルセロナでは日陰でも風は少なかった。
お互い二歳児がいるので、当然お昼の後は毎日昼寝の時間。
スーパーとかを除いてはほとんどの店がこの時間帯閉まっているし、
なにしろ町を歩く人がとっても少なくなる。

チュニスの町を思い出す。
みんな当たり前に午後は休みだったなぁ。
最初はなんじゃそりゃと思ったけど、
毎日午前中の授業の後、燦々と照りつける太陽の下
寮までの道を歩いていると、それこそが正しい選択だとわかる。

チュニスでもバルセロナでも、だから夜は長い。
10時すぎでも普通に子供の声が路上に響いている。
早めの午前中と遅めの夜こそが、暑い国の生活時間なのだと思う。

暑さの中でこそ味わえる果物の瑞々しさや
ガスパッチョやビールや炭酸の美味しさ。
夜風の心地よさや屋外の開放感。
そういうものを家族全員、思う存分満喫してきた。

日本もすでに暑さが厳しくなっているということだけれど、
節電のためにクーラーを我慢したり弱めたりということが
結構行われているらしい。そんな中で出会った記事。

「エアコンを止めて分かったニッポンの夏の過ごし方」

生産性なんて忘れて、暑さに酔うっていうのが、
チュニスやバルセロナの人々を彷彿とさせる。
どっちにもクーラーのあるお店もお家もあったけどね。
でも基本的には自然の気候に沿って、
暑いときは休んで、涼しくなったら外に出てって
そういう味わい方をできる生活をしていたいものだ。

来週から約5年ぶりの「真夏の日本」に帰る。
暑さに酔う覚悟で3週間乗り切れるだろうか。