建設的

海外に出た日本人の例に漏れず、今更ながらに日本ってって色々気になる今日この頃。
先日も仕事場にあった本を借りて読んでみた。

日本人が書かなかった日本—誤解と礼賛の450年

なんか日本像の総括って感じでしたが、色々と面白かったです。
ゲイシャ、フジヤマっていうノリではなくて、なぜそういうものばかりが
日本研究になってしまったのかっていう視点で描かれていて、結構新鮮な本でした。

んで、その他にも江戸末期の本とか最後の将軍徳川慶喜とかの本を読んで(これは授業で教えるからでもある・苦笑)、その流れで先日手に取ったのがこちら。

ラフカディオ・ハーン—虚像と実像

小泉八雲っていう名前は聞いたことあったし、上記の他の本でも色々と引用が出て来たりしていたので、それもあって読んでみたのですが、結論からいうとなんとも後味の悪い本でした。それもこれもAmazonのたった一つのレビューの最後の一文に尽きます。
「たぶん、研究しているうちに著者はハーンのことが嫌いになってしまったのだろう」

そう、あんまりにも敵意むき出しで、ハーンがいかに冷静に日本を見られなかったか、彼の調査方法にいかに問題があったかとか、そんなことばかりが一冊続く。たしかに著者の指摘は間違いではないだろうし、歴史的裏付けや根拠も示されている。でも結論が「だからハーンはそんなにすごくない」っていうのは、なんだか腑に落ちない。むしろ、そうやって批判するのであれば、そういう問題点はあった上で、じゃあハーンの作品の意義がどんなところにあるかを述べてくれないと、読んでる方としてはちっとも得る物がない感じがしてしまう。

読み終わって後味の悪さを旦那に愚痴ったら「建設的じゃないとつまらないよね」と言われ、その通りと納得した。この本はどこまでも建設的ではない。ハーンはたしかに今でいう文化人類学の手法から考えても、社会学的に考えても、情報収集とか記述の仕方に色々な偏りや脚色がある。だけど、彼は決して文化人類学的研究をしようと思ったわけではないだろうし、社会学的な論文を書こうと思ったわけではないはずだ(無論まだそんな学問なかったし)。日本という国に魅かれて、そこに住み着き帰化もして、それでもなお理解できない日本のことや、自分を受け入れてくれない日本人との関係に悩みながら、自分なりに分かっていることを発信したまでだと思う。その文節の端々を捕まえて、やれ誇張だとか脚色だというのは、ただ意地が悪い。

最終章にもともとチェンバレンの研究をしているのだけど、それとよく引き合いに出されるハーンということで、本当にハーンはそこまで親日なのかっていう疑問をもって調べた結果の本だというようなことが書いてあって、なるほどと納得はするんだけど、やっぱりだから良い本だとは思えないし、せっかくやるならもう一歩踏み込んで欲しかった。

ということで反面教師ではないけれど、ブログであれなんであれ、自分からの発信というのは建設的でありたいものです。

八月十五日と私

「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍」ぶのは国民だと思っていたら、
「然れども、朕は時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、
以て万世の為に太平を開かむと欲す」という文脈なのだと、今さっき知った。

玉音放送を聞いてみんな落胆し泣き崩れたのだろうと勝手に思い込んでいたが、この本を読んでみると、実はほっとしたとか、よく分からなかったとか、当たり前ながら色々な思いがあって、妙に納得した。

一番印象的だったのはなだいなだの話。
チフスの病人を病院まで運ぶのに列車では伝染するからと断られ、父親と一緒に病人をリヤカーに乗せて運んでいる途中、美しい松原の景色を見ながらお昼を食べていた頃に玉音放送が流れたんだろうけれど、自分はその存在自体知らなかったと。
「そのとき歴史が動いた」とか、あとから振り返れば劇的瞬間はある。
だけど、そのときそこで生きていた人にとっては、それもまた日常の中の一ページなのだ。

一番心が痛むのは、敗戦の玉音放送を聞いた後、浅間山に飛び込んでいったパイロットの話。戦争に負けたのに自分はなぜ生きているのだと、自分を責める人の話。思想というのは、生物の一番根幹にある生存本能にまで逆らわせることが出来るのだ。その威力と脅威。

いくつか、外地で終戦を迎えた人の話も載っていた。
中国や朝鮮が日本の植民地になり、軍人だけでなく民間人までもが移住し、日本人であるというだけで特別扱いされて暮らしていたなどという事実を、私は習ったことがない。もちろん自分の勉強不足を棚に上げるつもりはないけれど、私が習った歴史では、満州事変こそ習ったものの、それはすぐに欧米との戦いにつなげられてしまい、アジアにおいて日本が何を目指し何を強いたのかということは触れられなかったように思う。大日本帝国という言葉を知ってはいても、それが具体的にさすところ知らないままであった。

生まれてくる時代がほんの数十年違っていれば、自分もこの日を生きていたかもしれない。もはや東京にその記憶を彷彿とさせるものはほとんどない。身近な戦争経験者もあまり多くを語らない。しかし大切なのは、もしまた同じように日本が不毛な戦争に踏み込もうとしたときに、過去からの学びをもとにNOと言えるようになることだと思う。メディアや政治家の言うことを鵜呑みにしていては、また同じことの繰り返しになるだけなのだ。本書の中の唯一の西欧人ヨゼフ・ロゲンドルフの言葉がなんて説得力を持っていることか。

「日本に弱点があるとすれば、それは多くの人があまりにも安全第一主義を取りすぎることだろう。単に経済の面ばかりではない。わたしがの言いたいのはむしろ、ひとと同じことを考えよう、言っておこう、そうしておけば間違いはないという日本人の本能的願望、つまり付和雷同の性向である。」 —ヨゼフ・ロゲンドルフ

『 祝婚歌 』

元ご近所さんのcoreさんのブログで紹介されていた詩。
この詩に関しては著作権を問わないと著者が明言しているそうなので、全文掲載。
私には耳の痛い詩でもある。
はいそうですかとあらためることも出来ないけれど、
せめて時々は自分に読み聞かせたい。

『 祝婚歌 』  吉野 弘

    二人が睦まじくいるためには
    愚かでいるほうがいい
    立派すぎないほうがいい
    立派すぎることは
    長持ちしないことだと気付いているほうがいい
    完璧をめざさないほうがいい
    完璧なんて不自然なことだと
    うそぶいているほうがいい
    二人のうちどちらかが
    ふざけているほうがいい
    ずっこけているほうがいい
    互いに非難することがあっても
    非難できる資格が自分にあったかどうか
    あとで
    疑わしくなるほうがいい
    正しいことを言うときは
    少しひかえめにするほうがいい
    正しいことを言うときは
    相手を傷つけやすいものだと
    気付いているほうがいい
    立派でありたいとか
    正しくありたいとかいう
    無理な緊張には
    色目を使わず
    ゆったり ゆたかに
    光を浴びているほうがいい
    健康で 風に吹かれながら
    生きていることのなつかしさに
    ふと 胸が熱くなる
    そんな日があってもいい
    そして
    なぜ胸が熱くなるのか
    黙っていても
    二人にはわかるのであってほしい

       『贈る歌』(吉野 弘著,花神社)より「祝婚歌」全文を転載.

モモからのメッセージ

中学生や高校生の国語を担当していると、数多くの名文に出会えます。
生徒に読んでもらいながら、自分が一番感動しているなんて事もしばしばです。

先日出会った文章は「モモ」の作者、ミヒャエル・エンデの朝日新聞への寄稿でした。
生徒は魂をゼーレと読むことがおかしいらしく、ずっと笑い転げていました。
私は一人で感動に浸っていました。

先日のWilburでの時間を思い出したりしました。
日本とアメリカを行き来する日々の中で、
時々自分の心がついてきていないように感じる時があって、
そういう瞬間を思い出したりもしました。

東京に住んでいた頃、時々思いついては出先から徒歩で帰ったりしました。
そのために小さな東京の地図は必需品でした。
電車で30分の道のりを、2時間、3時間かけて歩いていると、
自分たちがいかに不自然なスピードで動き回っているのかを痛感しました。
アメリカに来て、この車社会で、それはひどくなる一方なのですけれど。

私の今の職場だって、歩いたら3時間では済まないでしょう。
私の生活範囲はすでにバーチャルと呼ぶにふさわしい規模に広がっています。
それでもその便利さを手放せるわけでもなく、今日もまた車に乗って出かけるのです。

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モモからのメッセージ      ミヒャエル・エンデ

 何年かまえ、中米奥地の発掘調査に出かけた研究チームの報告を読んだなかに、こんなことがありました。
調査団は、必要な機器等の荷物一式を携行するためにインディアンのグループをやとった。調査作業の全行程には完壁な日程表ができていた。そして初日から4日間はブログラムが予想以上によくはかどった。運搬役のインディアンたちは屈強で従順で、日程どおりにことが進んだのだ。ところが5日目になって、彼らは先へ行く足をぷっつり止めた。だまって全員で輪になり、地べたに座りこんで、もうテコでも荷物をかつごうとしない。調査団の人たちは賃金アップを提案したが、だめだった。叱りつけたり、ついには武器まで特ちだして脅したりしてみたが、インディアンたちは無言で車座になったまま動かない。学者たちはお手上げの状態で、とうとうあきらめた。日程には大幅な遅れが生じた。と、とつぜんー2日後のことだったーインデイアンたちは同時に全員が立ち上がった。荷物をかつぎあげ、予定の道を前進しだした。賃金アップの要求はなかった。調査団側から改めて命令したのでもなかった。このふしぎな行動は、学者たちにはどうにも説明のつかぬことだった。
インディアンたちは、理由を説明する気などまるでないらしく、口を閉ざしたままだった。ずっとあとになって、白人のグループの数人と彼らとのあいだにいくぶんの信頼関係が生じてから、はじめてひとりが答えをあかした。
「はじめの歩みが速すぎたのでね」という答えだった。
「わたしらの魂(ゼーレ)があとから追いつくのを待っておらねばなりませんでした」

 この答えについて、私はよく考えこむことがあります。
工業化社会の文明人である私たちは、未開民族の彼らインディアンから、学ぶべきところまことに大きいのではないでしょうか。
私たちは、外的な時間計画、日程をとどこおりなくこなしていきます。が、内的時間、魂の時間にたいする繊細な感情を、とっくに殺してしまいました。私たちの個々人にはもはや逃げ道がありません。ひとりで枠をはずれるわけにいきませんから。私たち自身がつくってしまったシステムは、容赦なき競争と殺人約な業績強制の経済原理です。これをともにしないものは落伍します。
昨日新しかったことが、今日はもう古いとされる。先を走る者を、はあはあ舌を出しながら追いかける。すでに狂気と化した輪舞なのです。だれかがスピードを増せば、ほかのみんなも速くなるしかない。この現象を進歩と名づける私たちです。
が、あわただしく走り続ける私たちは、はたしていかなる源から遠ざかりゆくのでしよう?私たちの魂からですって?そう、私たちの魂は、もうはるか以前に路上に置き捨てられました。それにしても魂を捨て子にしたことで、肉体が病んでいきます。だから病院や神経治療施設は、ひとびとであふれています。魂不在の世界 これが私たちの走りゆく目的地だったのでしょうか? 
もうほんとうに不可能でしょうか、私たち全員が狂気の輪舞をいっせいに中止して、おたがいに車座になって大地に座る、そして無言で待つ、ということは?

 もうひとつの「答え」のことは、文化人類学者の友人から最近聞いたばかりです。
これもひとりのインディアン女性の口から出ています。その友人が旅先で出かけた山の頂上にインディアンの村があった。その地方一体には水源がたった一カ所にしかなくて、それは山のふもとの井戸だった。村の女たちは、毎日半時間の坂道をおり、帰りは重い水がめを肩にして一時間、山をのぼっていく。友人は、女たちのひとりにたずねた
「いっそ村ごと、ふもとの水源近くに移したほうが賢明ではないかね」 女の答えはこうだった。
「賢明、かもしれませんね。でも、そうしたら私たちは、快適さという誘惑に負けることになると思います」
私たち文明人には、この答えはさきほどの答え以上にいぶかしく聞こえるのではないでしょうか?快適であることが、なぜ誘惑と呼ばれるのか?
私たちが手にした洗濯機、自動車、エレベーター、飛行機、電話、ベルトコンベヤー、ロボット、コンピューター、要するにおよそ現代社会を構成するすべてのものは、快適な生活のためにつくられたはずです。それとも?
これらのモノは、暮らしをらくにします。骨の折れる仕事から私たちを解放し、もっと本質的なことのために時間をめぐんでくれる。そうではなかったでしようか、私たちを解放するんでしょう?そうです、確かに。
ただ、何から解放するのでしょう?ひょっとして、まさに本質的なことから?だとしたら、いったいどうなっているんでしょう?私には、あの奇妙な言葉を口にしたインディアン女のほうが、ほんとうはこの私たちのだれよりも、ずっとはるかに解放されて自由なのだ、という思いがつきまとって離れません。 
 聖書にも、これに似たふしぎな言葉があります。
「人は、たとえ全世界を手に人れても、自分の魂(ゼーレ)を失ったら、何の益があろうか。(マタイ伝16・26)」
何、言ってる、魂がどうのこうのだって!そんなもの、我々はどこかの路上にとっくに置き忘れてきたよ。未来の世の中は徹底的に快適で、完全に本質不在の世界になってるさ。
あなたはそう思いませんか?

自分の気持ちほど信用ならないものはない

旦那との入籍の手続きを進めているときに、私は「国際離婚」という本を読んでいた。
旦那と入籍したすぐあとに、何かあった時の財産分与について文書で記しておきたいと頼んだ。

どちらも旦那さんはびっくりしていた。後者については少し嫌な顔もした。どうして結婚するときに、離婚するかもしれないって考えるのって。

もうすぐ遅ればせながらの結婚式をする身で、こういうことをいうのはものすごく不謹慎な気もするけど、やっぱり絶対一生離婚しませんとも、一生この人だけを愛しますとも、言えないのだ。

そうしたいと思う。旦那のことが好きだし、彼との生活は私にたくさんの幸せをくれる。これをずーっと、命が終わる時まで続けたいと思う。

だけどそうします、とはいえない。分からないのに断言したら嘘になるから。

自分の気持ちほど信用ならないものはないと思う。
思っているよりも簡単なことで、人の気持ちは180°変わってしまったりする。そしてそれはその人が弱いとかその人が悪いとかなんじゃなくて、そういうものなんだと私は思っている。なにしろ自分自身、そんな風にころっと変わって今日のここまで生きてきたわけで。

そんなわけで、夫婦になったばかりのダーリンが悲しげな顔をしてもなお、私は最初の二つをやめなかった。

こういう話をして、すんなり分かってくれる人と、断固否定する人と、綺麗に分かれる。そして自分がころっと変わってしまったことに気付いたあの日よりも前の私だったら、頑として否定しただろうとも思う。

あの頃の私や、その他否定派の人達は、私がこういうことを言うから私の気持ちに揺らぎがあるんだと判断するようだ。だけど、私が言いたいのはそういうことじゃない。

私はこれから、いつもいつも、当たり前じゃなく、その都度旦那といることを選ぶのだ。そのために努力するし、そのために選択するのだ。結婚したから当然一生一緒にいるなんて思えないからこそ、一緒にいるために努力出来るんだと私は思う。

とある掲示板で、婚約相手から「マンションの名義ははっきりしておこう」と言われ寂しがる女性の書き込みを見て、そんなことを思い出した。あっという間に1年半が経っている。そんな調子で本当のジジババになるまで一緒にいよう。

つながり

とある掲示板で面白い書き込みを発見。

夫婦関係を続けられる条件

1.お互いに愛し合っていること
2.愛は無くても尊敬できる存在であること
3.完全な主従関係にあること

ツッコミどころは3だけど、まあそれは置いておいて・笑。

実際にはこれら3つがきれいにわかれてるわけではないと思うけど。
私には3つ混ざったものが理想形だなぁ(あ、でも2の「愛は無くても」は一応括弧に入れるかな・笑)。んで、その源をたどっていけば自分の両親の姿なのかもと思う。

夫婦の数だけ違った関係があると思うので、どれが正しいとかってことは言えないし、自分が知り得る関係っていうのもほんのいくつかだけだと思う。それでも、自分の周りにある関係の中で「いいなぁ」って思える関係があるのなら、ラッキーだ。

昨日TTVで「東京タワー」をみたら、おかんが癌の手術をする回で、その中で
「親子関係は簡単だ。産まれた瞬間に約束されている。でも家族は、長い時間をかけて、たくさんの努力をしなければ築けない。」
というような息子の語りがあって、すごく納得した。親子関係が簡単かどうかは議論の余地があるかもしれないけど、後半部分は特に共感。

夫婦関係っていうのと家族の関係っていうのは、イコールではなくてもかなりかぶっているんだと思う。

以前旦那さんと話していてお互いに強く同意したのは、親が子供を「ダメだ」というのはいけないよね〜ってこと。親が無条件に子供を受け入れて、それがその子の自信になるのだということ。もちろん、無条件といっても怒らなくていいとかそういう意味ではないですよ。
違う考え方を持ってる人もいると思うけど、少なくとも私と旦那はそうやって育てられてきて、今そのことに感謝しているし、だからこそ自分たちもそうしたいと思っているわけです。

んで上記の掲示板をみて感じたのは、それって夫婦間でも同じなんだなということ。相手に対してあれがダメだこれがダメだということだけ思っていると、相手も自分に不満を持つのは当然というような書き込みだったんだけど、やっぱり「尊敬」とか「尊重」ってことになるのかな。いや、「思いやり」とか「受け入れる」ってことか。

私たちは入籍してまだ1年の新婚さんなので、この先どうなるかはまだ未知の世界。この先二人の関係がどうなるかも、将来子供が産まれたら何が変わるのかも分からない。だけど、ラッキーなことに私たちの回りには素敵な夫婦や家族がいる。だからその人達の関係をお手本にして、私たちの関係を良く続けていけるように、努力していこうと思う。

もったいない

今日、大手小町の掲示板でおもしろいトピックを読んだ。
たくさん注文しておいて、なぜ残すの?」というトピック。

色々な意見を読みながら、自分の場合を考えてみた。

まず、個人的には食べ物を残すことは好きではない。出来る限り全部食べ切りたいと思う。それはやっぱり誰かが作ったものだし、食べなければゴミになるわけだし、というような気持ちから。
そして自分が作ったものも、やはりなるべくゴミにはならないようにしたいと思う。もし食べきれないなら他の料理にアレンジするなり、冷凍でもして取っておくなりね。

でも、そういう風に考えてなるべくそうしてきたつもりだけど、ここアメリカではさすがにそうはいかない。残すことに罪悪感を感じていたら、ここでは気持ち悪くなると思う。それだけの量が出る。持ち帰りは出来るけど、パスタとかその場でないとっていう料理もあるしね。それで泣く泣く残すことが増えた。食べ切る時もあるけど、残すこともある。

そんなわけで、食べ物を残すことに罪悪感は感じるわけだけど、残すこともやっぱりあるというのが私の現状なわけです。それで、もしレストランで残したときに作った人からならまだしも、隣の席にいた人から注意されたらって考えたら、「なんであなたに言われなきゃいけないの?」って思ってしまうかもしれないと思った。

トピ主さんの考えには共感するんです。でも自分が言われたら「あれ?」って思ってしまうかもしれない。これは結構な矛盾だなと思って、自分の中に渦巻く感情をそれぞれ分析してみた。

まず浮かぶのは「もったいない」という気持ち。それから「作った人に悪いな」という気持ち。そして、そういう罪悪感を感じているにも関わらず、他人(しかも作った人じゃない人)から非難されたら浮かぶであろう「関係ないでしょ」という気持ち。

「もったいない、食べられるのに」
これって誰でも感じるんじゃないかな。食べ物を残してしまった時や、野菜をダメにしてしまった時とか。数年前にマータイさんが「もったいない」という言葉を世界中に紹介したいといって話題になったけど、その言葉の定義としては「そのものが持つ可能性を無駄にする」ということだと私は思っている。それで、食べ物が目の前にあって、それが食べられるというのは本能で分かるわけだから、それを自分のせいでゴミにしてしまうのはまさしく「もったいない」わけだ。もしかしたら誰か他の人の胃袋を満たしたかもしれないものが、自分の手の中にあるばっかりにゴミになってしまったと。んで、これは多くの人が自然に感じることだと思う(思いたい)。思わないとしたら、目の前に食べ物があっても、それを「生きる力を与えるもの」と判断する動物的な本能が欠けているってことだと思う。本能的なものだからこそ、感じるか感じないかしかないんじゃないかな。子供が親から言われるのは場合によっては必要だと思うけど、それを除いて人から言われて感じるものじゃないと私は思う。だから人にも言わない。あ、旦那さんは別ね。つまり家族を除いてっことかな・笑(ご都合主義)。

「作った人に悪いな」
「もったいないな」という気持ちもと同時に浮かぶのが、「作った人に悪いな」という気持ち。レストランじゃなくて誰かの手料理だったらなおさら感じるだろう。料理を見て、作った人の労力を感じるかどうか。お米の一粒にお百姓さんの苦労を感じるかどうか。想像力ともいえるんじゃないかな。でもこれは考え方だから、感じる人もいるし、感じない人もいるだろう。私は想像できる方がいいと思うし、そう思って食べた方が美味しく感じられると思う。だけど、そう思わなければいけないとは言えない。どう考えるかはその人の自由だから。
あと想像力についてだけれど、現代社会っていうのはあらゆる意味で、それを削ぐ環境だと思う。米一粒だってお百姓さんが長い時間かけて育てたんだっていうのは、畑がどこにでもあって、お百姓さんがたくさんいて、土に触れて育った人には、当たり前のことだろう。だけど、現代社会、特に都会では、お米は袋に入って売っているものでしかない。
消費する方だけでなく、生産の観点から見ても、もはや人の手を経ていない食べ物も多いのかもしれないとも思う。つまり機械で種まきして機械で収穫して、機械で料理されて機械で温められたものかもしれないってこと。100%機械って食べ物がどのくらいあるのかは分からないけど。でもその割合は高くなっているのではないかしら。そういう現象が双方から進んでいくと、結果的には食べ物の価値は「生きる力をくれるもの」ということか、何円かという二つしかなくなってしまうのだろうな。

「関係ないじゃん」
さて、そんな二つの罪悪感にかられながらも、もし隣の席にいた人から注意されたとしたら、言うか言わないかは別として「関係ないじゃん」と思ってしまうだろうな、私は。
これは多分「あなたが作ったんじゃないでしょ」というので、罪悪感があるが故の自己弁護。これは情けないけど、してしまうかもしれない。
でもそれとは別に、作った人に言われても「関係ないじゃん」という人もいるだろう。
それは「お金払ってるから」。
これは私は言わない。絶対。作った人に言われたら、「ごめんなさい」というしかない。それは自分が作った人間だったらやっぱり嫌だろうと思うから(と良い人ぶって書いてみたけど、逆の言い方をすれば、ここが私の想像力の限界だってことだ)。
お金が全てであるアメリカに住んでいると、時々本当に嫌気がさす。なんて下品な国なんだろうと思う時がある。でも、なんだかんだいっても日本もこの方向に進んでいるのだろう。
「お金を払ったんだから、わたしのものなんだから、何をしても自由でしょ」というのがその理論で、悲しいけれど法律的にはこれが正しいのだろう。私はこういう開き直りは好きじゃない。でも、そう言っている人を説得できるわけでもない。だから結局は認めていることになるんだろう。自分がどうしたいかだけが基準で、自分の行動で回りの人間がどう思うかということが行動の理由にならないなんて、なんと自分勝手で生きにくい社会だろう。日本でも「人に迷惑がかかるから」とか「人が嫌な気持ちになるから」というのが、行動を抑制する理由にならなくなっているという批判を耳にする。それでも、この国よりよっぽどましだし、どうかそこで止まって欲しい。

結局
話がそれてしまったけど、私の考えはざっとこんな感じ。トピ主さんが批判している二人は、開き直ってるように見えても、悪いという気持ちがあるようだというのが分かるし、そもそも作った人でもない自分がそこで注意するのはおかしいと思うので、私はこのケースでは何もしないと思う。多少もったいないなぁと横目で見て思うかもしれないけど、それだけで特に嫌な気持ちにはならないかな。

でも本当はね、本当に一番いいと思うのは、そこで「あんたたち、もったいないじゃないの〜」と軽く注意できてしまうおばさんがいて、その注意を批判とか攻撃と取らずに「ごめんなさ〜い、思ったより多くってぇ。もらってくれます?」とかって返せる若者達。
人の距離が遠すぎるとどんな言葉でもすぐ攻撃や批判と捉えられてしまうし、受け手も身構えざるを得ない。それが都会の一番の悲しい現象かな。
といっても私はばりばりそういう都会育ちなので、そんなおばさんに注意されたら批判されたと思ってしょげてしまう気がする。情けないなぁ。