Give Peace a Chanceって歌うんだ

今年度の初め、私が参加しているコーラスで使用している部屋について他の音楽クラスとバッティングがあり、多少もめた。といってもどちらもいい年した大人だし、市営の施設なので市役所の人も間に入って無事解決。結果的に私たちがその部屋を使えることになった。

解決後初めての練習日、部屋でウォームアップをしていると、移動させられたクラスの先生がやってきてこう言った。
「ここにある楽器はとても高いものなんだ。触らないでくれ。」
私たちはピアノ以外の楽器は使わないので「分かってます。気をつけますよ。」と答えた。
先生は続けた。「分かっていない、今あなたが寄りかかっている楽器は50万するし、あの楽器の上にコートが置いてあるなんてもってのほかだ。」
こっちにも言い分はある。その楽器たちのせいでコート掛けが塞がれて使えないのだ。
正直に言えばムッとしたし、多分多くの人がそうだった。

私はそのやりとりを見ながら、そこに敵意を込めなければ、こっちも譲ってくれてありがとう、移動させてしまってごめんなさいって言えただろうにって思っていた。どこからか負が入り込むとそれは回り回ってなかなか消せないと思うから。

でもその時にコーラス仲間の一人が言った。「そうね、確かにそういう楽器の使い方はよくないわね、ごめんなさい。」
ムッとして動こうとしない人もいたし、無視していた人もいた。
でも彼女は別に苛立つでもなく穏やかなまま仲間たちにコートをどけましょうと呼びかけた。
先生は黙って出て行った。
いきなりの出来事になんだあれと悪口を言う人もいたけど、私はただ感動した。

私は流されていないつもりだった。でも多分私が口を開けば、負の言葉しか出てこなかったと思う。それは直接相手を攻撃するというより、自衛的になるという意味での負だ。つまり、相手からいきなり攻撃されたという口実を得て、私たちは悪くないのにという自己正当化が私の中では着実に起きていたのだということが、そうでない彼女の言動を目の当たりにして身に染みたのだ。

Anatomy of Peaceにはこのまんまのことが書いてあったではないか。

相手の発した「負」を、批判したり受け止めたりするのではなく流すのだと、気に留めないということなのだと分かった。分かったからといってできるようにはならないけど、でも残念ながら発生してしまった負が、簡単に暴発してしまう負が、穏やかに静まっていくのを目の当たりにして、私もこういう大人を目指したいと強く思った。

戦争とか世界規模のことだけでなく、夫婦間とか親子間とか友達同士で起こるような諍いも、多分そのほとんどは負の増殖によるものだと思う。もともとものすごい諍いとか不平等が存在するというよりも、どこかで生まれた小さな負があっというまに暴発してしまうだけ。直接相手を攻撃する人だけでなく、それを批判的に見ている私のような偽善者もまた負を増長している。

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