今日、大手小町の掲示板でおもしろいトピックを読んだ。
「たくさん注文しておいて、なぜ残すの?」というトピック。
色々な意見を読みながら、自分の場合を考えてみた。
まず、個人的には食べ物を残すことは好きではない。出来る限り全部食べ切りたいと思う。それはやっぱり誰かが作ったものだし、食べなければゴミになるわけだし、というような気持ちから。
そして自分が作ったものも、やはりなるべくゴミにはならないようにしたいと思う。もし食べきれないなら他の料理にアレンジするなり、冷凍でもして取っておくなりね。
でも、そういう風に考えてなるべくそうしてきたつもりだけど、ここアメリカではさすがにそうはいかない。残すことに罪悪感を感じていたら、ここでは気持ち悪くなると思う。それだけの量が出る。持ち帰りは出来るけど、パスタとかその場でないとっていう料理もあるしね。それで泣く泣く残すことが増えた。食べ切る時もあるけど、残すこともある。
そんなわけで、食べ物を残すことに罪悪感は感じるわけだけど、残すこともやっぱりあるというのが私の現状なわけです。それで、もしレストランで残したときに作った人からならまだしも、隣の席にいた人から注意されたらって考えたら、「なんであなたに言われなきゃいけないの?」って思ってしまうかもしれないと思った。
トピ主さんの考えには共感するんです。でも自分が言われたら「あれ?」って思ってしまうかもしれない。これは結構な矛盾だなと思って、自分の中に渦巻く感情をそれぞれ分析してみた。
まず浮かぶのは「もったいない」という気持ち。それから「作った人に悪いな」という気持ち。そして、そういう罪悪感を感じているにも関わらず、他人(しかも作った人じゃない人)から非難されたら浮かぶであろう「関係ないでしょ」という気持ち。
「もったいない、食べられるのに」
これって誰でも感じるんじゃないかな。食べ物を残してしまった時や、野菜をダメにしてしまった時とか。数年前にマータイさんが「もったいない」という言葉を世界中に紹介したいといって話題になったけど、その言葉の定義としては「そのものが持つ可能性を無駄にする」ということだと私は思っている。それで、食べ物が目の前にあって、それが食べられるというのは本能で分かるわけだから、それを自分のせいでゴミにしてしまうのはまさしく「もったいない」わけだ。もしかしたら誰か他の人の胃袋を満たしたかもしれないものが、自分の手の中にあるばっかりにゴミになってしまったと。んで、これは多くの人が自然に感じることだと思う(思いたい)。思わないとしたら、目の前に食べ物があっても、それを「生きる力を与えるもの」と判断する動物的な本能が欠けているってことだと思う。本能的なものだからこそ、感じるか感じないかしかないんじゃないかな。子供が親から言われるのは場合によっては必要だと思うけど、それを除いて人から言われて感じるものじゃないと私は思う。だから人にも言わない。あ、旦那さんは別ね。つまり家族を除いてっことかな・笑(ご都合主義)。
「作った人に悪いな」
「もったいないな」という気持ちもと同時に浮かぶのが、「作った人に悪いな」という気持ち。レストランじゃなくて誰かの手料理だったらなおさら感じるだろう。料理を見て、作った人の労力を感じるかどうか。お米の一粒にお百姓さんの苦労を感じるかどうか。想像力ともいえるんじゃないかな。でもこれは考え方だから、感じる人もいるし、感じない人もいるだろう。私は想像できる方がいいと思うし、そう思って食べた方が美味しく感じられると思う。だけど、そう思わなければいけないとは言えない。どう考えるかはその人の自由だから。
あと想像力についてだけれど、現代社会っていうのはあらゆる意味で、それを削ぐ環境だと思う。米一粒だってお百姓さんが長い時間かけて育てたんだっていうのは、畑がどこにでもあって、お百姓さんがたくさんいて、土に触れて育った人には、当たり前のことだろう。だけど、現代社会、特に都会では、お米は袋に入って売っているものでしかない。
消費する方だけでなく、生産の観点から見ても、もはや人の手を経ていない食べ物も多いのかもしれないとも思う。つまり機械で種まきして機械で収穫して、機械で料理されて機械で温められたものかもしれないってこと。100%機械って食べ物がどのくらいあるのかは分からないけど。でもその割合は高くなっているのではないかしら。そういう現象が双方から進んでいくと、結果的には食べ物の価値は「生きる力をくれるもの」ということか、何円かという二つしかなくなってしまうのだろうな。
「関係ないじゃん」
さて、そんな二つの罪悪感にかられながらも、もし隣の席にいた人から注意されたとしたら、言うか言わないかは別として「関係ないじゃん」と思ってしまうだろうな、私は。
これは多分「あなたが作ったんじゃないでしょ」というので、罪悪感があるが故の自己弁護。これは情けないけど、してしまうかもしれない。
でもそれとは別に、作った人に言われても「関係ないじゃん」という人もいるだろう。
それは「お金払ってるから」。
これは私は言わない。絶対。作った人に言われたら、「ごめんなさい」というしかない。それは自分が作った人間だったらやっぱり嫌だろうと思うから(と良い人ぶって書いてみたけど、逆の言い方をすれば、ここが私の想像力の限界だってことだ)。
お金が全てであるアメリカに住んでいると、時々本当に嫌気がさす。なんて下品な国なんだろうと思う時がある。でも、なんだかんだいっても日本もこの方向に進んでいるのだろう。
「お金を払ったんだから、わたしのものなんだから、何をしても自由でしょ」というのがその理論で、悲しいけれど法律的にはこれが正しいのだろう。私はこういう開き直りは好きじゃない。でも、そう言っている人を説得できるわけでもない。だから結局は認めていることになるんだろう。自分がどうしたいかだけが基準で、自分の行動で回りの人間がどう思うかということが行動の理由にならないなんて、なんと自分勝手で生きにくい社会だろう。日本でも「人に迷惑がかかるから」とか「人が嫌な気持ちになるから」というのが、行動を抑制する理由にならなくなっているという批判を耳にする。それでも、この国よりよっぽどましだし、どうかそこで止まって欲しい。
結局
話がそれてしまったけど、私の考えはざっとこんな感じ。トピ主さんが批判している二人は、開き直ってるように見えても、悪いという気持ちがあるようだというのが分かるし、そもそも作った人でもない自分がそこで注意するのはおかしいと思うので、私はこのケースでは何もしないと思う。多少もったいないなぁと横目で見て思うかもしれないけど、それだけで特に嫌な気持ちにはならないかな。
でも本当はね、本当に一番いいと思うのは、そこで「あんたたち、もったいないじゃないの〜」と軽く注意できてしまうおばさんがいて、その注意を批判とか攻撃と取らずに「ごめんなさ〜い、思ったより多くってぇ。もらってくれます?」とかって返せる若者達。
人の距離が遠すぎるとどんな言葉でもすぐ攻撃や批判と捉えられてしまうし、受け手も身構えざるを得ない。それが都会の一番の悲しい現象かな。
といっても私はばりばりそういう都会育ちなので、そんなおばさんに注意されたら批判されたと思ってしょげてしまう気がする。情けないなぁ。