子育てに必要なのは他人

母親による児童虐待のニュースに対して、これだから若い母親はとか親になる資格もないなどのコメントを見聞きするたび、悲しくなる。

虐待はいけない。
でも私には他人事には思えない。

虐待を受けたことはない。ニュースに出てくるような折檻をしたこともない。
でも子どもに手をあげたことはあるし、怒鳴ったこともある。部屋に閉じ込めてしまいたいと思ったこともあるし、家において逃げてしまいたいと思ったこともある。

そういう気持ちになる度に、そういう行動に出る度に、自己嫌悪に陥ってなんてダメな母親なんだと自分を責めるんだけど、外れてまではいなくとも一度ゆるんでしまった箍をはめ直すのはとても難しい。自己嫌悪に陥っているときに子どもがわがままを言ったり泣き叫んだりしようものなら、どんどん箍は緩んでいって、行動も気持ちもエスカレートしてしまう。

私がこれまで、幸い毎回箍をはめ直してこられたのは、ただただまわりの人のおかげだ。なるべく時間通りに帰って来てくれる旦那はもちろん、Skypeしてくれる日本の家族、気さくに声をかけてくれる近所の人。そういう人との交流が、自分を子どもと二人だけの世界から引き戻してくれる。

コブが生まれてから手伝いに来てくれていた母が帰国し、日中二人の生活にやっと慣れた頃、二人きりでいるよりも他人がいたほうがコブを愛おしく思うことが多いことに気がついた。でもなんだか自分の愛情が足りないことの証のような気がして認めずにきた。でも最近になってやっと、恥じることなく認められるようになった。コブももうじき15ヶ月で、きちんとした発語はないものの、こちらのいうことをかなり理解するようになったし、簡単な意思疎通もできるようになった。それでもなお、負のスパイラルに陥ると、自分の感情の渦にそのまま巻き込んでしまいそうになる。他人が監視しているという意味ではなくて、他人の存在を感じられることで、少なくとも私は、コブもまた自分とは違う一人の人間なのだと、距離を持って接することができるようになるのだ。

大阪の事件を知って、本当に胸が痛んだ。
その後本人の過去のブログやら何やらの情報が溢れだし、「愛情あふれる母が鬼母に」というような記事ばかりが目につく。彼女の変化ばかりを強調する紙面に違和感を覚える。「愛憎渦巻く」というように、「可愛さ余って憎さ百倍」ということわざもあるように、愛情と憎しみは決して相反する感情ではない。児童虐待を鬼親の仕業と片付けているうちは、有効な解決策なんて出てこない。

私が自分自身の経験から感じるのは、子どもはなるべくたくさんの人間の中で育つべきだということ。核家族の狭いアパートは一種の密室だ。密室の中では負のスパイラルに陥りやすい。そのためには公園でも児童館でも、子連れで気軽に行ける場所が増えること、そして交通手段だけでなく町の人たちが子連れでの外出を暖かく見守れないと難しい。そして誰でも気軽に利用できる一時保育や保育園。

フランスには専業主婦(夫)の子どもを預かるためのHalte Garderieという施設がある。保育園で一時的に預かってくれるのではなく、そのための施設があるのだ。それを知ったとき、すごいなと思った。そして今、それを利用できなかったら自分はもっと辛かっただろうと容易に想像できる。専業主婦が子育てを休んでどうするなんていう批判をネットの掲示板でよく見かけるけれど、私から言わせてもらえば専業主婦だからこそ、子育てを時々は休まなくてはいけない。

偉そうなことを書いている自分だけれど、先日Garderieでフランス人の母親が預けられるのを嫌がる息子に「お母さんはこれからエステに行くの。一緒に行ってもつまらないと思うよ。」と言ってるのを聞いて、エステかいと突っ込んでいる自分に気づいた。こういう偏見で自分たちが苦しい思いをしているというのに、自分の心にこそ、そういう偏見は残っているようだ。

赤ちゃんは かわいそう ではない

コブが生まれて早10ヶ月。

初めての育児の不安と見知らぬ土地での孤独感はもちろん、土地勘なさすぎてどこで気分転換すればいいのかも分からず、日本の家族が近くにいない寂しさや和食恋しさに、日本で子育てできたらなぁと思ったことは数え切れない。

でもフランスで子育てできてよかったと思うこともある。それは今まで当たり前だと思っていた育児情報と180度違うやり方を知ることができたこと(親子別室、3ヶ月での断乳、託児制度などなど)。何よりもそれらを知っていくなかで、育児なんて180度違うものが必ず存在するくらい「なんでもありなんだ」ということを実感できたこと。

私の場合、外国だったから顕著だったけれど、実際には日本で育児をしたからといって日本の育児情報のまんまになるわけはなくて、やっぱり最終的には「なんでもありなんだ」という結論になったんだと思う。それはつまり親として自信を持つことであり、自分と自分の子供のことは私が一番よく分かっているという自負を持つことだ。

私は半年経ってようやくそう思えるようになった。どんなに素晴らしい本でも、どんなに論理的なデータでも、自分と子供には当てはまる部分も当てはまらない部分もあるわけで、自分は親としてそれらを自信を持って取捨選択していけばいいのだと思えるようになった。

こう書いてしまうとなんだか当たり前のことなんだけれど、ここにたどり着くまでは不安だった。情報ばかりがあふれる中で、本当にこれでいいんだろうかと不安ばかりが募り、さらに調べても矛盾する情報が両方でてくるだけで悩みは止まらない。でもそのどちらにもでてくる「~なんて赤ちゃんがかわいそう」という文句を見る度に、やっぱりこれだとかわいそうなのかなぁなんてさらに自信を失くしていた。

私は幸い直接言われたことはほとんどないのだけれど、こういう状況で自分の家族から「~なんて赤ちゃんがかわいそう」といわれたら本当に辛いだろうと思う。困ってしまうのは多くの育児書にこの文句があふれていること。でもどういう選択をするにしてもそれは「そうしないと赤ちゃんがかわいそうだから」ではなくて「その方が私と私の子供には合ってるから」であるべきだし、少なくとも私はそうありたい。添い寝でも別寝でも、母乳でもミルクでも、預けても預けなくても、母親が専業でも兼業でもフルタイムでも、幸せに育っている人間は山ほどいる。どういう選択だとしても、自分と自分の子供に合った方法を自分で考えて選んだのであれば、赤ちゃんは決してかわいそうではない。だから私は子育て中のお母さんに、絶対この文句だけは言わないようにしようと思う。

選挙

オバマが大統領になった。
オバマがアメリカで初めての非白人大統領になったというのは事実。だけど、肌が黒かったから当選したわけじゃない。オバマ本人も選挙戦の中で人種については絶対に触れなかった。オバマだからできたこと。
だけど同時に、新しく選ばれた大統領が白人ではなくケニア人とアメリカ人のハーフで、黒い肌を持つ人間だったことは、この国にとってあまりにも大きすぎる出来事だ。アメリカにおける黒人の歴史を、映画やドキュメンタリーで見てはいても、実際にそれがどういう影響を今持っているのか、実感できることは少ない。特にベイエリアは黒人の住み分けが湾を隔てていて、正直こちらに来てからあまり黒人を多く見かけない。そんな中、昨日の”The View”という番組の中での黒人の司会者の発言が印象的だった。
“The View”はウーピー・ゴールドバーグをはじめ、バーバラ・ウォルターズ等、人種、思想、年代的にも多様な面々が時事問題についておしゃべりをする番組だ。支持政党も分かれており、今回の選挙戦中は番組も随分ヒートアップした。司会者の一人、黒人女性のシェリは、どちらの主張にもそれぞれ共感できるところがあると言って最後の最後までどちらに投票するかを決めかねずにいた。彼女は結局オバマに投票したそうだが、そのことについて話そうとして、彼女は泣き出しながらこう言った。「私がハリウッドで女優になりたいと言ったとき、両親は郵便局に勤めなさい、この国では黒人には出来ることと出来ないことがある、ハリウッドでは黒人は働けないと言った。昨日の夜、自分の息子を見ながら、この子にはそういう人種ゆえの限界があると言わなくていいんだと分かった。限界なんてないって言うことが出来ると。」
正直これを見るまで、「黒人大統領」という言葉をあまり好意的に見ることが出来なかったし、何よりもパウエルが発言した通り「黒人だからオバマを支持するのではなく、オバマだから支持する」という風にならないといけないと私も思っていた。今回オバマに投票した人の中に、黒人なら誰でも良いと思って投票した人が多くいたとは思わない。だけど両者を比較したときに、彼が黒い肌を持つ人間であるということが一つの要素として加わっていた人は結構いるのではないかと思うのだ。そういう思いもあって、アメリカはもちろん、日本の報道で「黒人大統領」が連発されるのを見て、なんだか複雑な気分になった。でも先ほどの発言を聞いて、そんなきれいごとではないのだということが、納得できた。今回の大統領選の結果には二つの側面があるのだ。一つはヒラリーに対しても、マケインに対しても、かなりのハンデを負って選挙戦をスタートしたバラクオバマという人物が当選したこと。そしてもう一つは、黒い肌を持つ人間がアメリカの大統領になったということ。そして人によっては前者より後者の方がより大きな意味を持つこともあるというのは、充分に理解できることなのだと思ったのだ。
今回の選挙を受けて、アメリカンドリームの国、誰にでもチャンスがある国アメリカという思いを、国民が強く意識したという。これによって愛国心がさらに強くなる人々もいるだろう。それが良いことなのかどうか、私にはよく分からないけれど、歴史の流れの中での、大きな一歩であったことは確かなんだろうと思う。今までの8年間に嫌気がさしていたからこそ、オバマに対する支持があそこまで上がったという指摘もあった。決して楽観視できる情勢ではないけれど、アメリカがどんな方向に進んでいくのか、見るのが楽しみではある。

残念な選挙

大統領選と同時に、様々な法案が住民投票にかけられた。こちらでは(特にカリフォルニアは)何から何まで住民投票にかける。それが民主主義だという主張も分かるけど、州の法案だけで10個以上あって、さらにそれぞれの街ごとのものもあって、果たして人々がどれだけリサーチして自分の意見を投票してるのか、それが本当の民主主義なのかよく分からない。一番よく分からないのは”Vote NO on Prop××”とか”Vote YES on Prop××”の類いのCM。どちらもたかだ30秒でその法案の善し悪しを伝えることなんか出来るはずないのに、人々の心につけ込もうとする意図丸見えのCMばかりなのだ。それを見るたびに、民主主義の意義を考えてしまう。
で、今回カリフォルニアで最も話題になったのがProp8。しばらく前にカリフォルニアの裁判所が合憲と認めた同性婚を禁止するための法案だ。そして残念ながらこの法案は通ってしまった。合憲との裁判所の判決があるので、同性婚賛成派は裁判を起こすそうだけれど、投票した人の半分以上の人が同性婚はダメと言ったんだと思うと悲しい。
私は同性愛っていうのは自分で選ぶものではなくて、その人の性質というか、自分の意志とは関係ないところで決まってしまうものなんだと思う。以前自分もゲイになり得ると思うかと聞かれて、考えたときの答えは「好きになった人がたまたま同性なら、なる」というものだった。私自身はそういう経験はないけれど、それはたまたま好きになった人が外国人で国際結婚をした自分と似ている気がしたのだ。国際結婚はもちろん結婚できるし、人権侵害というほどのハードルはないけれど、戸籍とか国籍とか偏見とかで、やはり日本人同士だったらなかったであろう問題にぶつかることもある。私は外国人と結婚したいと思っていたわけではなくて、好きになった人がたまたま外国人だったのだ。だからそれと同じ意味で、好きになった人がたまたま同性だったってことは充分にあり得ると思う。でも私のその返答はかなり風変わりなものと受け取られた。
私が今回の投票結果を見て残念に思うのは、おそらくは未知のものに対する恐怖心から、自分に迷惑がかかるわけではないのにNOを選んだ人が多かっただろうと思うからだ。ゲイが結婚できて迷惑する人なんているんだろうか。反対派の主張は「伝統的な家族を守る」とか「宗教の自由を」とかだったけど、ゲイの家族が出来たからってどうして異性カップルの家族が脅かされるのか分からないし、好きな宗教を信じるのは勝手で、なぜ彼らの意思の自由は認められないのかっていうのが不思議だ。何よりも不快だったのは、「Prop8が通らなければ、小学校で子供が同性婚について教えられることになる」というCM。しかもそれをさも脅威のように煽り立てているのだ。
自分自身もひょんなことから同性を好きになる日が来るかもしれない。自分には来なくても、自分の子供や親戚で、そういう経験をする人が出てくるかもしれない。その時に願うのは、人に迷惑をかけることなく幸せになって欲しいということだと思う。婚姻関係を結べなければ、遺産は家族に取られてしまうし、本人の意思表示ができない場合の医療的選択をすることも許されない。サンフランシスコのゲイを見ていて思うのは、彼らは声高にゲイであることとかゲイの権利とかを主張したいわけではなくて、ただ単に平穏な日常生活を、お互いを頼れる老後生活を求めているんだということ。婚姻という言葉にこだわる人が多いのであれば、Civil UnionをフランスのPACSのようなものにすることも一つの方法だと思う。どういう形が一番良いのか、私にはわからないけれど、ゲイを認めず、彼らのパートナーとしての権利も認めず、直視しようとしないのは、決していい結果にはつながらないはずだ。ゲイカップルの子供の問題も、私たちが目を背けている間にどんどん実際に誕生しているわけだし、目をそらすのではなく、お互いの妥協点を探していくことが、何より大切なんだと思う。無知は恐怖しか生まないのだ。

建設的

海外に出た日本人の例に漏れず、今更ながらに日本ってって色々気になる今日この頃。
先日も仕事場にあった本を借りて読んでみた。

日本人が書かなかった日本—誤解と礼賛の450年

なんか日本像の総括って感じでしたが、色々と面白かったです。
ゲイシャ、フジヤマっていうノリではなくて、なぜそういうものばかりが
日本研究になってしまったのかっていう視点で描かれていて、結構新鮮な本でした。

んで、その他にも江戸末期の本とか最後の将軍徳川慶喜とかの本を読んで(これは授業で教えるからでもある・苦笑)、その流れで先日手に取ったのがこちら。

ラフカディオ・ハーン—虚像と実像

小泉八雲っていう名前は聞いたことあったし、上記の他の本でも色々と引用が出て来たりしていたので、それもあって読んでみたのですが、結論からいうとなんとも後味の悪い本でした。それもこれもAmazonのたった一つのレビューの最後の一文に尽きます。
「たぶん、研究しているうちに著者はハーンのことが嫌いになってしまったのだろう」

そう、あんまりにも敵意むき出しで、ハーンがいかに冷静に日本を見られなかったか、彼の調査方法にいかに問題があったかとか、そんなことばかりが一冊続く。たしかに著者の指摘は間違いではないだろうし、歴史的裏付けや根拠も示されている。でも結論が「だからハーンはそんなにすごくない」っていうのは、なんだか腑に落ちない。むしろ、そうやって批判するのであれば、そういう問題点はあった上で、じゃあハーンの作品の意義がどんなところにあるかを述べてくれないと、読んでる方としてはちっとも得る物がない感じがしてしまう。

読み終わって後味の悪さを旦那に愚痴ったら「建設的じゃないとつまらないよね」と言われ、その通りと納得した。この本はどこまでも建設的ではない。ハーンはたしかに今でいう文化人類学の手法から考えても、社会学的に考えても、情報収集とか記述の仕方に色々な偏りや脚色がある。だけど、彼は決して文化人類学的研究をしようと思ったわけではないだろうし、社会学的な論文を書こうと思ったわけではないはずだ(無論まだそんな学問なかったし)。日本という国に魅かれて、そこに住み着き帰化もして、それでもなお理解できない日本のことや、自分を受け入れてくれない日本人との関係に悩みながら、自分なりに分かっていることを発信したまでだと思う。その文節の端々を捕まえて、やれ誇張だとか脚色だというのは、ただ意地が悪い。

最終章にもともとチェンバレンの研究をしているのだけど、それとよく引き合いに出されるハーンということで、本当にハーンはそこまで親日なのかっていう疑問をもって調べた結果の本だというようなことが書いてあって、なるほどと納得はするんだけど、やっぱりだから良い本だとは思えないし、せっかくやるならもう一歩踏み込んで欲しかった。

ということで反面教師ではないけれど、ブログであれなんであれ、自分からの発信というのは建設的でありたいものです。

イニシエーション

PLEASANTVILLE“を観た。実は前にも観たことがあったと途中で気がついた。でも、前に観た時はこんなに考え込まなかったな。

「人生はイニシエーションの連続だ。後戻りはできない。それを表現したかった。」

「蝶の舌」という映画を撮った監督の言葉。
「蝶の舌」は未だに見ていないけど、この言葉だけは心に深く刻まれたまま薄れることがない。

何かを経験したり、誰かに出会ったり、何かを話したり、何かを見たり、あるいは毎日のルーティーンのような生活の中で何かを発見したり。どんな些細なことも、私たちは巻き戻すこともやり直すことも出来ない。その些細な出来事が起こる前の自分に戻りたくても、そんなことに気付いてしまった自分を否定したくても、私たちはもうそのイニシエーションを受けてしまっていて、それをなかったことにはできないのだ。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と、栖とまたかくのごとし。」
『方丈記』鴨長明

「こうしてこの時が 続けばと願ってから 人生はやがて たしかに終わると感じた」
『風の坂道』小田和正

このままでいたいと思う時がある。この幸せを、この瞬間をどうか続けたいと思う時がある。だけど全てのものは移り変わる。諸行無常。自分だってそうなのだ。今の自分と明日の自分は違う。もうあの瞳に会えないように、私はかつてそうしたように君の目を覗き込むことは出来ないだろう。

私たちはやり直すことも、
取り消すことも、
留まることもできない。

だからどうか、毎日を味わい尽くそう。

何のために生きるのか

人生のゴールは死ぬことだ。

結局自分は人類っていう種族の連綿と続いていく命の鎖の一つに過ぎない。
その大きなうねりのような人類の命の営みの中の、たった一つの鎖として、私に何が出来るのだろう。

偉業を成し遂げたいとか、有名になりたいとか、自己実現を目指すとか、
そういう気持ちはもちろん否定しないし、それはそれでいいのだけど、
それが生きる目的かと問われれば違うと思う。

そもそも自分で産まれようと思って産まれてきた人間なんていないんだし、
生きようと思って生き続けている人も多数ではないはず。
多くの人はたまたまこの世に生を受けて、そのまま毎日生きている。
それなのに自分の命そのものに意味を求めることがおかしいと思うのは理不尽なんだろうか。

命なんて自分で手に入れたものじゃなく、ましてや自分のものと言い切れるものでもない。
なぜなら自分だけに影響するわけじゃなくて自分の先に続くはずの鎖全てに影響するから。

だから何のために生きるのかと聞かれれば、子孫を残すためってことになる。
そういってしまうと残念ながら子供が出来ない人に失礼なのかもしれないけど、でも結局やっぱりそうなのだ。そして子孫を残すことこそが人類という種族の唯一の目的だからこそ、不妊治療とか代理母とかっていう技術が発展し得たんだと思う。

時々、社会的な成功とか充実とかを、命の目的だと勘違いしてしまう。
ゴールに辿り着くまでをどう生きるかっていううちの一つを、それこそが目的だと思い込んでしまう。
日本は人生のレールががっちりと敷かれているからこそ、余計にその先にあるものが目的のように感じられてしまう。
私はずっとそう思っていた。高校を出て大学を出て、就職して昇進して、何かしら名を残せるようなことをしたい。そう思っていた。
でも実際にレールを外れてみて、レールの先にあるものが必ずしもゴールではないと気付いた。

ゴールに辿り着くまでの道は、どんなでも良いはずだ。
がむしゃらに走っても、ゆっくり歩いても、のんびり休みながらぶらついても。
できたら衣食住には困らずに、自分の歩んできた道を愛おしみながら命の目的地に辿り着きたい。
だから今出来ることって言ったらとりあえず「衣食住には困らずに」いられるようにすることかな。
誰かに食べさせてもらっても、誰かに食べさせてあげても、どっちでもいいんじゃない。
そう思ってくれる、そう思える相手がいるのなら、それでいいんじゃない。

夢の役割

パプリカをみた。
期待していなかったせいもあるけど、すごく良かった。
東京ゴッドファーザーズもそうだったけど、すごく現実離れしているようでリアルな感じ。
想像していたよりもグロテスクでなくてよかった。

そんな映画を見たせいか、幾晩か続けて夢を見た。
というか、見た夢が、醒めた後も記憶に残っていた。
夢って自分の心に在ることを、良いことも悪いことも映し出すように思う。

妹犬が旅立ってから数週間後に、実家の夢を見た。
そこは薄暗くて、父と母が泣いていた。
亡くなった妹を想って、泣いていた。
夢から醒めたら、あまりの悲しさに涙が止まらなかった。

予言とか暗示とか言い出すつもりはないけれど、
それはやっぱり心の叫びだった。

心の叫びは叫びにしかならないし、
心の悲しみは悲しみにしかならない。
だからこそ、そのままの形で出してあげなくては。

そう思って行動した。
そしたら心が落ち着いた。

もう一つは教訓的な夢。
大切な人が私の軽はずみな行為のせいで傷つけられそうになる。
私は自他ともに認めるわがままではあるけれど、
それでも、その人をそんな風に傷つけてしまうようなことだけは
してはなるまいと、目覚めてから思った。

いつかきっと、この夢に感謝する日が来るような気がする。

身近な死からいつも考えること

死はいつも突然だ。
降って湧いたように突然で、
それでいて絶対に元には戻れない境界を作ってしまう。
こんなに絶対的なものが、この世の中に他にあるだろうか。

死によって遮断された時を和らげることが出来るのは、時間だけだ。
誰かの死を乗り越えることはできない。
あるのは慣れなのだ。その命が旅立ってしまったという事実に慣れること。

いつか自分の親、兄弟、そして自分自身も突然死ぬ。
どれだけ病床に伏せていたとしても、死はやっぱり突然だから。
それは万人、そして命ある全ての存在に平等に訪れるもの。

だからこそ今を大切にしよう。
死によって時空が分たれた後、
元に戻れなくて後悔することがないように。
今言える言葉は今伝えよう。
会いたい人には会いにいこう。
流したい涙も今流し、叫びたいときには叫ぶ。
たまには愛をささやこう。
感謝の言葉を伝えよう。

もしも私かあなたの命に明日がないのだとしても
もしも命の旅立ちを見とれなかったとしても
それでも後悔しないように。

実際には突然である以上誰もが後悔するんだけれど、
だからこそせめて心構えをしておかなくては。
いつ誰が旅立つか分からない。
それくらい命って不確定なものなのだ。
当たり前で気付きにくい事実。

立つ鳥跡を濁さず

自分がいなくても、世界は確実に前に進んでいく。

初めてそう思ったのはいつだっただろう。
卒業後に小学校を訪れたときか、
あるいは桐朋を訪れた時だったかもしれない。

懐かしい校舎、匂い、先生。
いつもあった場所にいつも通りに並んでいるロッカーには、
もう知らない生徒の名前があって、先生達は忙しそうだった。

こうやって世界は進んでいく。
自分にとって自分は不可欠な存在だけれど、
今自分が属している世界にとって、自分が不可欠なわけではない。
多分そんな状況は滅多にない。

数ヶ月も経って前のエントリと同じ結論なんて進歩もない感じもするが、
やっぱり結局学校や団体や職場とか、
形ある場所は自分がいなくなってもちゃあんと前に進んでいくのだ。
自分がそこでやりがいを感じ、時に生き甲斐をも感じていたもの達は
私でなければ出来なかったものではなくて、
私がいなければ他の誰かがやっていたであろうことたち。
無論やり方は違ってくるだろうから、そういう意味で言えば私にしか出来なかったんだけど。

それでなんで数ヶ月ぶりにまた同じことを考えているかって言うと、
最近痛感していることが「人間、引き際が肝心」ってことで、
これも突き詰めていくと同じことなんだと思うのだ。

責任を持って何かをやっていた人間にとって、それを手放すのは寂しい。
時には自分の一部をもぎ取られるような気持ちさえなるのかもしれない。
しかもそれを人に譲るってことになるとさらに気持ちは複雑になる。
責任感が強ければ強い程、自分に厳しい人であればあるほど、
自分がこなしてきたことを人にも求めてしまうし、そこに口を出したくなるはずだ。
だけどそれは一番してはいけないことだと思う。
自分が去ると決めた以上、たとえそれが短期でも長期でも恒久的なものでも
まずは自分がいなくてもその世界が成り立つことを認めて、
そこに自分の居場所がないことを認めて、そして手を引かないといけない。
自分の知識や経験を伝えるというのはもちろん大事だけれど、
それは一朝一夕で伝わるものではないから今までどれだけ共有できていたかで決まってしまう。
それまで一人でやってきた人が、去るときになって伝えようと思っても、
それは文書とか表面的な言葉にしかならなくなってしまうように思う。

と、つらつら書きましたが、
要は実際にそういう状況に置かれてみてわかったのは、
残された側にもいらないストレスが溜まるということ、
そして本人に対して不必要な嫌悪感が募ってしまうということ。
だからもうきれいに飛び立ってくれないかぁ。