モモからのメッセージ

中学生や高校生の国語を担当していると、数多くの名文に出会えます。
生徒に読んでもらいながら、自分が一番感動しているなんて事もしばしばです。

先日出会った文章は「モモ」の作者、ミヒャエル・エンデの朝日新聞への寄稿でした。
生徒は魂をゼーレと読むことがおかしいらしく、ずっと笑い転げていました。
私は一人で感動に浸っていました。

先日のWilburでの時間を思い出したりしました。
日本とアメリカを行き来する日々の中で、
時々自分の心がついてきていないように感じる時があって、
そういう瞬間を思い出したりもしました。

東京に住んでいた頃、時々思いついては出先から徒歩で帰ったりしました。
そのために小さな東京の地図は必需品でした。
電車で30分の道のりを、2時間、3時間かけて歩いていると、
自分たちがいかに不自然なスピードで動き回っているのかを痛感しました。
アメリカに来て、この車社会で、それはひどくなる一方なのですけれど。

私の今の職場だって、歩いたら3時間では済まないでしょう。
私の生活範囲はすでにバーチャルと呼ぶにふさわしい規模に広がっています。
それでもその便利さを手放せるわけでもなく、今日もまた車に乗って出かけるのです。

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モモからのメッセージ      ミヒャエル・エンデ

 何年かまえ、中米奥地の発掘調査に出かけた研究チームの報告を読んだなかに、こんなことがありました。
調査団は、必要な機器等の荷物一式を携行するためにインディアンのグループをやとった。調査作業の全行程には完壁な日程表ができていた。そして初日から4日間はブログラムが予想以上によくはかどった。運搬役のインディアンたちは屈強で従順で、日程どおりにことが進んだのだ。ところが5日目になって、彼らは先へ行く足をぷっつり止めた。だまって全員で輪になり、地べたに座りこんで、もうテコでも荷物をかつごうとしない。調査団の人たちは賃金アップを提案したが、だめだった。叱りつけたり、ついには武器まで特ちだして脅したりしてみたが、インディアンたちは無言で車座になったまま動かない。学者たちはお手上げの状態で、とうとうあきらめた。日程には大幅な遅れが生じた。と、とつぜんー2日後のことだったーインデイアンたちは同時に全員が立ち上がった。荷物をかつぎあげ、予定の道を前進しだした。賃金アップの要求はなかった。調査団側から改めて命令したのでもなかった。このふしぎな行動は、学者たちにはどうにも説明のつかぬことだった。
インディアンたちは、理由を説明する気などまるでないらしく、口を閉ざしたままだった。ずっとあとになって、白人のグループの数人と彼らとのあいだにいくぶんの信頼関係が生じてから、はじめてひとりが答えをあかした。
「はじめの歩みが速すぎたのでね」という答えだった。
「わたしらの魂(ゼーレ)があとから追いつくのを待っておらねばなりませんでした」

 この答えについて、私はよく考えこむことがあります。
工業化社会の文明人である私たちは、未開民族の彼らインディアンから、学ぶべきところまことに大きいのではないでしょうか。
私たちは、外的な時間計画、日程をとどこおりなくこなしていきます。が、内的時間、魂の時間にたいする繊細な感情を、とっくに殺してしまいました。私たちの個々人にはもはや逃げ道がありません。ひとりで枠をはずれるわけにいきませんから。私たち自身がつくってしまったシステムは、容赦なき競争と殺人約な業績強制の経済原理です。これをともにしないものは落伍します。
昨日新しかったことが、今日はもう古いとされる。先を走る者を、はあはあ舌を出しながら追いかける。すでに狂気と化した輪舞なのです。だれかがスピードを増せば、ほかのみんなも速くなるしかない。この現象を進歩と名づける私たちです。
が、あわただしく走り続ける私たちは、はたしていかなる源から遠ざかりゆくのでしよう?私たちの魂からですって?そう、私たちの魂は、もうはるか以前に路上に置き捨てられました。それにしても魂を捨て子にしたことで、肉体が病んでいきます。だから病院や神経治療施設は、ひとびとであふれています。魂不在の世界 これが私たちの走りゆく目的地だったのでしょうか? 
もうほんとうに不可能でしょうか、私たち全員が狂気の輪舞をいっせいに中止して、おたがいに車座になって大地に座る、そして無言で待つ、ということは?

 もうひとつの「答え」のことは、文化人類学者の友人から最近聞いたばかりです。
これもひとりのインディアン女性の口から出ています。その友人が旅先で出かけた山の頂上にインディアンの村があった。その地方一体には水源がたった一カ所にしかなくて、それは山のふもとの井戸だった。村の女たちは、毎日半時間の坂道をおり、帰りは重い水がめを肩にして一時間、山をのぼっていく。友人は、女たちのひとりにたずねた
「いっそ村ごと、ふもとの水源近くに移したほうが賢明ではないかね」 女の答えはこうだった。
「賢明、かもしれませんね。でも、そうしたら私たちは、快適さという誘惑に負けることになると思います」
私たち文明人には、この答えはさきほどの答え以上にいぶかしく聞こえるのではないでしょうか?快適であることが、なぜ誘惑と呼ばれるのか?
私たちが手にした洗濯機、自動車、エレベーター、飛行機、電話、ベルトコンベヤー、ロボット、コンピューター、要するにおよそ現代社会を構成するすべてのものは、快適な生活のためにつくられたはずです。それとも?
これらのモノは、暮らしをらくにします。骨の折れる仕事から私たちを解放し、もっと本質的なことのために時間をめぐんでくれる。そうではなかったでしようか、私たちを解放するんでしょう?そうです、確かに。
ただ、何から解放するのでしょう?ひょっとして、まさに本質的なことから?だとしたら、いったいどうなっているんでしょう?私には、あの奇妙な言葉を口にしたインディアン女のほうが、ほんとうはこの私たちのだれよりも、ずっとはるかに解放されて自由なのだ、という思いがつきまとって離れません。 
 聖書にも、これに似たふしぎな言葉があります。
「人は、たとえ全世界を手に人れても、自分の魂(ゼーレ)を失ったら、何の益があろうか。(マタイ伝16・26)」
何、言ってる、魂がどうのこうのだって!そんなもの、我々はどこかの路上にとっくに置き忘れてきたよ。未来の世の中は徹底的に快適で、完全に本質不在の世界になってるさ。
あなたはそう思いませんか?

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