立つ鳥跡を濁さず

自分がいなくても、世界は確実に前に進んでいく。

初めてそう思ったのはいつだっただろう。
卒業後に小学校を訪れたときか、
あるいは桐朋を訪れた時だったかもしれない。

懐かしい校舎、匂い、先生。
いつもあった場所にいつも通りに並んでいるロッカーには、
もう知らない生徒の名前があって、先生達は忙しそうだった。

こうやって世界は進んでいく。
自分にとって自分は不可欠な存在だけれど、
今自分が属している世界にとって、自分が不可欠なわけではない。
多分そんな状況は滅多にない。

数ヶ月も経って前のエントリと同じ結論なんて進歩もない感じもするが、
やっぱり結局学校や団体や職場とか、
形ある場所は自分がいなくなってもちゃあんと前に進んでいくのだ。
自分がそこでやりがいを感じ、時に生き甲斐をも感じていたもの達は
私でなければ出来なかったものではなくて、
私がいなければ他の誰かがやっていたであろうことたち。
無論やり方は違ってくるだろうから、そういう意味で言えば私にしか出来なかったんだけど。

それでなんで数ヶ月ぶりにまた同じことを考えているかって言うと、
最近痛感していることが「人間、引き際が肝心」ってことで、
これも突き詰めていくと同じことなんだと思うのだ。

責任を持って何かをやっていた人間にとって、それを手放すのは寂しい。
時には自分の一部をもぎ取られるような気持ちさえなるのかもしれない。
しかもそれを人に譲るってことになるとさらに気持ちは複雑になる。
責任感が強ければ強い程、自分に厳しい人であればあるほど、
自分がこなしてきたことを人にも求めてしまうし、そこに口を出したくなるはずだ。
だけどそれは一番してはいけないことだと思う。
自分が去ると決めた以上、たとえそれが短期でも長期でも恒久的なものでも
まずは自分がいなくてもその世界が成り立つことを認めて、
そこに自分の居場所がないことを認めて、そして手を引かないといけない。
自分の知識や経験を伝えるというのはもちろん大事だけれど、
それは一朝一夕で伝わるものではないから今までどれだけ共有できていたかで決まってしまう。
それまで一人でやってきた人が、去るときになって伝えようと思っても、
それは文書とか表面的な言葉にしかならなくなってしまうように思う。

と、つらつら書きましたが、
要は実際にそういう状況に置かれてみてわかったのは、
残された側にもいらないストレスが溜まるということ、
そして本人に対して不必要な嫌悪感が募ってしまうということ。
だからもうきれいに飛び立ってくれないかぁ。

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