夫婦別姓

今日は再びダウンタウンへ出向いて領事館へ。
目的はパスポートの修正です。

国際結婚でよく悩みの種になる姓。
選択肢としては
1.夫婦別姓
2.旦那の姓に統一
3.ジョイントネーム(複合姓。例えば「ブルボン−乃木」が姓になる)
あたりがあるようです。

それぞれにメリット・デメリットがあるようですが、まあカップルが納得していればいいんだと思います。
ちなみに日本では、日本人と外国籍の人が入籍した場合、届け出がない限り日本人の姓は変わりません。私と旦那さんはもともと夫婦別姓で構わないと思っていたので、婚姻届を出しただけで(といっても手続きは大変でしたが・苦笑)氏名変更はしませんでした。

この場合のデメリットというか、問題になるのは、夫婦関係の証明が同姓の場合と比べると面倒ということと、おそらく一番大きいのが子供が出来たときに子供の姓をどうするかという問題。夫婦別姓の場合通常はそれぞれの国籍ごとにその国籍の親の姓を受け継ぐみたいです。でも例えば夫婦は別姓でいいけど、子供は両方の姓を入れてあげたいとかって思うと、そこで色々手続きが必要になるみたい。

私たちはまだ子供がいないので、子供の姓をどうするかは出来てから決めるつもりであんまり考えていません。ただ、夫婦関係の証明というのは、色々な場面で必要になってくるし、特にどちらの母国でもない第三国で暮らしていると、その証明がものすごく大きな意味を持ってくる場合もあるので(幸いまだ無いですが)、そういうことを考えてパスポートの修正に行ってきました。

ちなみに私がした修正は「戸籍上は姓(氏)の変更はしていないが、外国人との婚姻により旅券に配偶者の姓(氏)を別名として併記する場合 」に該当するもので、
(変更前)leMMon Noki →(変更後)leMMon Noki (Bourbon)
となります。パスポート自体を作り替えれば、IDの部分がこうやって変わるんですが、そうすると新規に作るのと同じだけお金がかかるので、私はただ修正にして、パスポートの1ページにアメンドを記してもらいました。これだと$8。ま、パスポートの期限がそろそろ切れるようであれば作ってしまってもいいと思うんですが、私はまだしばらく残っているので、今回は修正のみで。

手続きとしては、パスポートと婚姻証明書を持っていき、窓口で修正の申請書と非ヘボン式ローマ字氏名表記等申出書をもらって記入し、提出します。この「非ヘボン式・・・」がないと、当然ヘボン式表記になり”Bourbon”ではなく”Burubon”になってしまうので要注意。
書類を提出してから1時間後にはできていて、その間にまたまたrf-1でランチも出来て、大満足な半日でした。

先にも書いたように、私たちは夫婦別姓で構わないと考えていたので、自分の正式書類に旦那さんの姓が入るのはこれが初めてです。
んで、なんだかむずかゆいのですが、実際にやってみたらこれが結構嬉しかったりして・・・。

まあそれはいいとして、国際結婚だとどっちを選ぶかでこれだけ悩めるのに、日本人同士の結婚だと戸籍上の夫婦別姓は未だに選べないなんて、なんだか逆差別だなぁと思ったりして。まあ戸籍制度で外国人が筆頭主になれないからこそ、別姓でも何でも好きにしてってことなんだろうけど。戸籍制度自体は問題があると思うけど、別姓に関してだけは私はラッキーだったのかもなぁ。

まあでも結論としては、誰でも別姓も選べるようにするべきだと思う。
戸籍上で別姓ありとするとか、事実婚を条件付きである程度婚姻に近いものにするとか(フランスのPACSみたいなものとか)、いくつか方法はあるはず。選ぶ人が多いかどうかではなくて、選べるかどうかが大事だと思うので、ぜひ法整備が進むことを願っています。

つながり

とある掲示板で面白い書き込みを発見。

夫婦関係を続けられる条件

1.お互いに愛し合っていること
2.愛は無くても尊敬できる存在であること
3.完全な主従関係にあること

ツッコミどころは3だけど、まあそれは置いておいて・笑。

実際にはこれら3つがきれいにわかれてるわけではないと思うけど。
私には3つ混ざったものが理想形だなぁ(あ、でも2の「愛は無くても」は一応括弧に入れるかな・笑)。んで、その源をたどっていけば自分の両親の姿なのかもと思う。

夫婦の数だけ違った関係があると思うので、どれが正しいとかってことは言えないし、自分が知り得る関係っていうのもほんのいくつかだけだと思う。それでも、自分の周りにある関係の中で「いいなぁ」って思える関係があるのなら、ラッキーだ。

昨日TTVで「東京タワー」をみたら、おかんが癌の手術をする回で、その中で
「親子関係は簡単だ。産まれた瞬間に約束されている。でも家族は、長い時間をかけて、たくさんの努力をしなければ築けない。」
というような息子の語りがあって、すごく納得した。親子関係が簡単かどうかは議論の余地があるかもしれないけど、後半部分は特に共感。

夫婦関係っていうのと家族の関係っていうのは、イコールではなくてもかなりかぶっているんだと思う。

以前旦那さんと話していてお互いに強く同意したのは、親が子供を「ダメだ」というのはいけないよね〜ってこと。親が無条件に子供を受け入れて、それがその子の自信になるのだということ。もちろん、無条件といっても怒らなくていいとかそういう意味ではないですよ。
違う考え方を持ってる人もいると思うけど、少なくとも私と旦那はそうやって育てられてきて、今そのことに感謝しているし、だからこそ自分たちもそうしたいと思っているわけです。

んで上記の掲示板をみて感じたのは、それって夫婦間でも同じなんだなということ。相手に対してあれがダメだこれがダメだということだけ思っていると、相手も自分に不満を持つのは当然というような書き込みだったんだけど、やっぱり「尊敬」とか「尊重」ってことになるのかな。いや、「思いやり」とか「受け入れる」ってことか。

私たちは入籍してまだ1年の新婚さんなので、この先どうなるかはまだ未知の世界。この先二人の関係がどうなるかも、将来子供が産まれたら何が変わるのかも分からない。だけど、ラッキーなことに私たちの回りには素敵な夫婦や家族がいる。だからその人達の関係をお手本にして、私たちの関係を良く続けていけるように、努力していこうと思う。

海の向こうで暮らすということ

アメリカに来て1年。
今までは、アメリカと日本は思ったより近いと感じていた。
Skypeでいくらでも話せるし、メールのやり取りも出来る。
お互いの近況を話したり、顔を見たりできる。
アメリカに行くと決まった時に感じた「遠く離れてしまう」という思いよりも、
現実は近かった。

でも先日妹が出産して、やっぱり遠いんだと分かった。
今まで近いと感じていたのは、近かったんじゃなくて、お互いにあんまり大きな変化がなかったからだ。日々の生活を聞かなくても、ある程度想像できたし、実際その通りだったんだろう。
ところが出産、そして新しい家族という大きな変化が起こったとき、それは私にとってものすごく遠い世界での出来事だった。写真はたくさん送ってもらったし、Skypeのビデオチャットでも対面したし、妹とも他の家族ともたくさん話してはいる。
でも、やっぱり私にとって、この新しい変化はまだ実感が伴わない。
そりゃ、体験してないんだから当たり前だ。
お恥ずかしいことだけど、初めてそのことに気付いたのだ。
どれだけ連絡を取り合っていても、実際に届かないという距離。

救いなのは、これがとても嬉しいニュースだということ。
たとえ人から「おばさん」と呼ばれる理由が出来てしまったんだとしても、変わらず嬉しいニュースなのだ。だから、実際に触れられない距離はもどかしいけれど、数週間後に迫った一時帰国までなんとか我慢できる。

でももしこれが何か悲しいニュースやショックなニュースだったらと思うと、今までに味わったことのない恐怖が湧いてくる。

「遠く離れてしまう」ということの実感が、これだったんだろう。
この距離を実感して、外国で暮らすということの意味が少し分かったように思う。

私はこの1年、3ヶ月おきに日本に帰っていて、いくらなんでも帰り過ぎかもって自分でも感じていた。
でも、時間があるのなら、いくらでも会いに行ったらいいと今は思う。
留学とか期間限定の海外生活なら、また事情は違うと思うんだけど。

私はビザがおりれば10月からフルタイムで仕事が始まる。
そうしたら今までみたいに3ヶ月おきには帰れなくなってしまう。本当に緊急のときには帰れるだろうけど、逆に考えたら本当に緊急のときにしか帰れない。

だから、時間のあるうちに長めにゆっくり日本に帰ることにした。
家族との再会も甥っ子との初対面も、愛犬との再会も、友人との再会も、どれもこれも待ちきれない。

もったいない

今日、大手小町の掲示板でおもしろいトピックを読んだ。
たくさん注文しておいて、なぜ残すの?」というトピック。

色々な意見を読みながら、自分の場合を考えてみた。

まず、個人的には食べ物を残すことは好きではない。出来る限り全部食べ切りたいと思う。それはやっぱり誰かが作ったものだし、食べなければゴミになるわけだし、というような気持ちから。
そして自分が作ったものも、やはりなるべくゴミにはならないようにしたいと思う。もし食べきれないなら他の料理にアレンジするなり、冷凍でもして取っておくなりね。

でも、そういう風に考えてなるべくそうしてきたつもりだけど、ここアメリカではさすがにそうはいかない。残すことに罪悪感を感じていたら、ここでは気持ち悪くなると思う。それだけの量が出る。持ち帰りは出来るけど、パスタとかその場でないとっていう料理もあるしね。それで泣く泣く残すことが増えた。食べ切る時もあるけど、残すこともある。

そんなわけで、食べ物を残すことに罪悪感は感じるわけだけど、残すこともやっぱりあるというのが私の現状なわけです。それで、もしレストランで残したときに作った人からならまだしも、隣の席にいた人から注意されたらって考えたら、「なんであなたに言われなきゃいけないの?」って思ってしまうかもしれないと思った。

トピ主さんの考えには共感するんです。でも自分が言われたら「あれ?」って思ってしまうかもしれない。これは結構な矛盾だなと思って、自分の中に渦巻く感情をそれぞれ分析してみた。

まず浮かぶのは「もったいない」という気持ち。それから「作った人に悪いな」という気持ち。そして、そういう罪悪感を感じているにも関わらず、他人(しかも作った人じゃない人)から非難されたら浮かぶであろう「関係ないでしょ」という気持ち。

「もったいない、食べられるのに」
これって誰でも感じるんじゃないかな。食べ物を残してしまった時や、野菜をダメにしてしまった時とか。数年前にマータイさんが「もったいない」という言葉を世界中に紹介したいといって話題になったけど、その言葉の定義としては「そのものが持つ可能性を無駄にする」ということだと私は思っている。それで、食べ物が目の前にあって、それが食べられるというのは本能で分かるわけだから、それを自分のせいでゴミにしてしまうのはまさしく「もったいない」わけだ。もしかしたら誰か他の人の胃袋を満たしたかもしれないものが、自分の手の中にあるばっかりにゴミになってしまったと。んで、これは多くの人が自然に感じることだと思う(思いたい)。思わないとしたら、目の前に食べ物があっても、それを「生きる力を与えるもの」と判断する動物的な本能が欠けているってことだと思う。本能的なものだからこそ、感じるか感じないかしかないんじゃないかな。子供が親から言われるのは場合によっては必要だと思うけど、それを除いて人から言われて感じるものじゃないと私は思う。だから人にも言わない。あ、旦那さんは別ね。つまり家族を除いてっことかな・笑(ご都合主義)。

「作った人に悪いな」
「もったいないな」という気持ちもと同時に浮かぶのが、「作った人に悪いな」という気持ち。レストランじゃなくて誰かの手料理だったらなおさら感じるだろう。料理を見て、作った人の労力を感じるかどうか。お米の一粒にお百姓さんの苦労を感じるかどうか。想像力ともいえるんじゃないかな。でもこれは考え方だから、感じる人もいるし、感じない人もいるだろう。私は想像できる方がいいと思うし、そう思って食べた方が美味しく感じられると思う。だけど、そう思わなければいけないとは言えない。どう考えるかはその人の自由だから。
あと想像力についてだけれど、現代社会っていうのはあらゆる意味で、それを削ぐ環境だと思う。米一粒だってお百姓さんが長い時間かけて育てたんだっていうのは、畑がどこにでもあって、お百姓さんがたくさんいて、土に触れて育った人には、当たり前のことだろう。だけど、現代社会、特に都会では、お米は袋に入って売っているものでしかない。
消費する方だけでなく、生産の観点から見ても、もはや人の手を経ていない食べ物も多いのかもしれないとも思う。つまり機械で種まきして機械で収穫して、機械で料理されて機械で温められたものかもしれないってこと。100%機械って食べ物がどのくらいあるのかは分からないけど。でもその割合は高くなっているのではないかしら。そういう現象が双方から進んでいくと、結果的には食べ物の価値は「生きる力をくれるもの」ということか、何円かという二つしかなくなってしまうのだろうな。

「関係ないじゃん」
さて、そんな二つの罪悪感にかられながらも、もし隣の席にいた人から注意されたとしたら、言うか言わないかは別として「関係ないじゃん」と思ってしまうだろうな、私は。
これは多分「あなたが作ったんじゃないでしょ」というので、罪悪感があるが故の自己弁護。これは情けないけど、してしまうかもしれない。
でもそれとは別に、作った人に言われても「関係ないじゃん」という人もいるだろう。
それは「お金払ってるから」。
これは私は言わない。絶対。作った人に言われたら、「ごめんなさい」というしかない。それは自分が作った人間だったらやっぱり嫌だろうと思うから(と良い人ぶって書いてみたけど、逆の言い方をすれば、ここが私の想像力の限界だってことだ)。
お金が全てであるアメリカに住んでいると、時々本当に嫌気がさす。なんて下品な国なんだろうと思う時がある。でも、なんだかんだいっても日本もこの方向に進んでいるのだろう。
「お金を払ったんだから、わたしのものなんだから、何をしても自由でしょ」というのがその理論で、悲しいけれど法律的にはこれが正しいのだろう。私はこういう開き直りは好きじゃない。でも、そう言っている人を説得できるわけでもない。だから結局は認めていることになるんだろう。自分がどうしたいかだけが基準で、自分の行動で回りの人間がどう思うかということが行動の理由にならないなんて、なんと自分勝手で生きにくい社会だろう。日本でも「人に迷惑がかかるから」とか「人が嫌な気持ちになるから」というのが、行動を抑制する理由にならなくなっているという批判を耳にする。それでも、この国よりよっぽどましだし、どうかそこで止まって欲しい。

結局
話がそれてしまったけど、私の考えはざっとこんな感じ。トピ主さんが批判している二人は、開き直ってるように見えても、悪いという気持ちがあるようだというのが分かるし、そもそも作った人でもない自分がそこで注意するのはおかしいと思うので、私はこのケースでは何もしないと思う。多少もったいないなぁと横目で見て思うかもしれないけど、それだけで特に嫌な気持ちにはならないかな。

でも本当はね、本当に一番いいと思うのは、そこで「あんたたち、もったいないじゃないの〜」と軽く注意できてしまうおばさんがいて、その注意を批判とか攻撃と取らずに「ごめんなさ〜い、思ったより多くってぇ。もらってくれます?」とかって返せる若者達。
人の距離が遠すぎるとどんな言葉でもすぐ攻撃や批判と捉えられてしまうし、受け手も身構えざるを得ない。それが都会の一番の悲しい現象かな。
といっても私はばりばりそういう都会育ちなので、そんなおばさんに注意されたら批判されたと思ってしょげてしまう気がする。情けないなぁ。

リンクの貼り方

私自身、色々な人のブログから面白いサイトや便利なサービスに辿り着いた経験があるので、少しでもそういう意味で役に立てばと思ってなるべくこのブログではリンクを貼るようにしています。といっても相互リンクとかではなく、ただ一方的に出て行くだけのリンクですが。

それで、そういうリンクのやり方なんですが、皆さんもネットサーフィンをしていてお気づきかもしれませんが、クリックすると新しいウィンドウ(Firefoxの設定によってはタブ)が開くものと、今開いているウィンドウがリンク先に移動してしまうものとあります。

言葉で書くと分かりにくいかと思うので、実際にやってみると(リンク先は今日行ったレストラン)、

A 新しいウィンドウが開くもの→Stacks’
B 今見ているウィンドウで移動するもの→Stacks’

んで、どっちがいいのか、というのが私の疑問なんです。

私はFirefoxユーザーで、新しいウィンドウはタブで開くように設定しているので、リンクをクリックしたら新しいタブが開いてくれば便利な気がして、最初は全てのリンクをAの形で入れようと思っていました。

ところがふと思い直してアクセス解析(以前のブログのだけど)のブラウザ利用率を見てみると、私のブログを訪れてくれる方の平均60%くらいがInternet Explorer6ユーザーと判明。ということはタブがないわけです。

それで思い出したのですが、以前IE6を使っていた頃、ネットサーフィンをしていると新しいウィンドウがたくさんたくさん開いてしまって、どのウィンドウがどのページだったかとかよく分からなくなって嫌だと思っていたのです、自分も。

それで、旦那さんに意見を求めたら、「パソコンに詳しくない人は分からないけど(彼はエンジニアなので)、僕はタブで開きたければ自分でタブで開くからBの方がいい」という意見でした。

それで、まだ正直悩んでいるのですが、とりあえずはBのタイプにすることにしました。
なので、このブログ内のリンクはクリックすると、今開いているウィンドウでリンク先に移動します。
もしこのブログのページはそのままで、他のウィンドウかタブでリンク先を開きたい場合は
・IEなら右クリックで「リンクを新しいウィンドウで開く」
・Firefoxなら中クリック、または右クリックで「リンクを新規タブで開く」
でできるはずです。

当たり前じゃんって人には当たり前の話だと思うのですが、皆さんにとってどちらの方が見やすいのか気になるので、もしやりにくよ〜って方がいたら是非意見ください。コメントでもメールでも。もちろんBでいいっていうのでも大歓迎です。