時間を過ごす=娯楽
ということで、なんとも語源が明確なこの言葉、初めて辞書で見た時から大好きなのだ。それはもう10年近く前になってしまうのか。そんで10年近くもこの言葉を知っていたんだけど、この前Wilburに行って初めて時間を過ごすから娯楽なんだと実感した。
どういうことかというと、前のエントリでも書いたようにWilburは自家発電で携帯も通じず、当然テレビもラジオもない。インターネットなんてどこの世界の話。んでそういう場所にふといると、時間を過ごすために本を読んだり、音楽を奏でたり、あるいは散歩したり、話し込んだりする。
やっていることは別に普段とそんなに変わらない。じゃあ何が違うかというと、普段の生活でこういうことやるのは、時間を過ごすためじゃなくて、暇が見つかった時だということ。寝る前にちょっと本を読むとか、日曜の午後散歩するとか、ルーティーンになっているものもあるだろうし、そうじゃなくてほんとにちょっと時間が出来たからやることもあるだろう。でもとにかく時間が目の前に広がっていて、じゃあ何をして過ごそうかなぁと考えたことは、多分ほとんどなかったように思う。ま、あったのかもしれないけど、今回改めて普段はそういうふうに考えることは少ないと思ったのだ。
私たちの普段いる場所って「やること」に溢れている。あくまで時間があってそこから何をするか選ぶのがpastimeなのに、逆に娯楽のための時間を作らなくてはいけなかったりする。
あるいは情報がありすぎるのかもしれない。私たちは何年も先のことまで結構予定が決まっていたりする。いや、実は何も確実に決まってなんかいないんだ(明日死ぬかもしれないし)。でもそう言っていては今の社会では生きていけないんだろう。それは社会のレールだったり自分のキャリアだったり色々あるだろうけど、結局そういう長いスパンの枠が決まってしまっていると、目の前に時間が広がっているってことがなくなってしまうのかもしれない。
Wilburみたいな場所に行って初めて、ポーカーやチェスや日本だったら囲碁や将棋が、なぜ昔の話に登場するのかよく分かる。他にやることがないのだ。バカにしてるんじゃなく、ただ純粋な意味でね。だから演劇とか見世物とか、発展したんだなぁと思って。そういう時代だったら日本のお祭りや花火大会もまた違う意味を持っていたんだろう。
その昔、人間には過ごすための時間なんかなくて、ただ生きていくだけだった。それが農耕をきっかけに集団で定住するようになって、自分で過ごせる時間が生まれた。そして文化が発達し、それは何十世紀にも渡って進化して、今の多種多様なものになった。そんな話を、この間小学生用のテキストで読んだ。
時間があるときにやれることの選択肢が豊富な私たちは恵まれている。だけど、どれだけ素敵な娯楽でも、時間を過ごすことが出来ないんだったらそれは本当のpastimeじゃないのかもしれない。暇を見つけてわざわざどこかに出かけて行列に並ぶ。わざわざ休みを取って、さらにお金を払ってなにかをする。
決して否定しているわけではなくて(私も今回のWilburはお金払ってるし)、ただそういう疑問が今回の休暇をきっかけに頭の中にどーんと横たわっている今日この頃なわけです。やっぱり現代人は忙しすぎるんだろうな。早くフランスに引っ越そう・笑。