人生のゴールは死ぬことだ。
結局自分は人類っていう種族の連綿と続いていく命の鎖の一つに過ぎない。
その大きなうねりのような人類の命の営みの中の、たった一つの鎖として、私に何が出来るのだろう。
偉業を成し遂げたいとか、有名になりたいとか、自己実現を目指すとか、
そういう気持ちはもちろん否定しないし、それはそれでいいのだけど、
それが生きる目的かと問われれば違うと思う。
そもそも自分で産まれようと思って産まれてきた人間なんていないんだし、
生きようと思って生き続けている人も多数ではないはず。
多くの人はたまたまこの世に生を受けて、そのまま毎日生きている。
それなのに自分の命そのものに意味を求めることがおかしいと思うのは理不尽なんだろうか。
命なんて自分で手に入れたものじゃなく、ましてや自分のものと言い切れるものでもない。
なぜなら自分だけに影響するわけじゃなくて自分の先に続くはずの鎖全てに影響するから。
だから何のために生きるのかと聞かれれば、子孫を残すためってことになる。
そういってしまうと残念ながら子供が出来ない人に失礼なのかもしれないけど、でも結局やっぱりそうなのだ。そして子孫を残すことこそが人類という種族の唯一の目的だからこそ、不妊治療とか代理母とかっていう技術が発展し得たんだと思う。
時々、社会的な成功とか充実とかを、命の目的だと勘違いしてしまう。
ゴールに辿り着くまでをどう生きるかっていううちの一つを、それこそが目的だと思い込んでしまう。
日本は人生のレールががっちりと敷かれているからこそ、余計にその先にあるものが目的のように感じられてしまう。
私はずっとそう思っていた。高校を出て大学を出て、就職して昇進して、何かしら名を残せるようなことをしたい。そう思っていた。
でも実際にレールを外れてみて、レールの先にあるものが必ずしもゴールではないと気付いた。
ゴールに辿り着くまでの道は、どんなでも良いはずだ。
がむしゃらに走っても、ゆっくり歩いても、のんびり休みながらぶらついても。
できたら衣食住には困らずに、自分の歩んできた道を愛おしみながら命の目的地に辿り着きたい。
だから今出来ることって言ったらとりあえず「衣食住には困らずに」いられるようにすることかな。
誰かに食べさせてもらっても、誰かに食べさせてあげても、どっちでもいいんじゃない。
そう思ってくれる、そう思える相手がいるのなら、それでいいんじゃない。